2010年4月21日水曜日

asahi Okuyami おくやみ Tomio Tada

免疫学者の多田富雄さん死去 能楽にも深い関心

2010年4月21日15時1分

印刷

ソーシャルブックマーク このエントリをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

写真多田富雄さん

 国際的な免疫学者で、能楽にも深い関心を寄せた東京大名誉教授の多田富雄(ただ・とみお)さんが21日、前立腺がんによるがん性胸膜炎で死去した。76 歳だった。葬儀は近親者で行う。「しのぶ会」は6月18日午後6時30分から東京都千代田区丸の内3の2の1の東京会館で開く。喪主は妻式江(のりえ)さ ん。

 多田さんは千葉大医学部卒。1974年、同大医学部教授に、77年、東大医学部教授に就任。東京理科大生命科学研究所長などを務めた。81年度の朝日賞を受賞、97〜07年度には朝日賞の選考委員も務めた。84年の文化功労者。

 体内に侵入したウイルスや細菌などから身をまもる免疫細胞のひとつ、T細胞には、異物を攻撃するアクセル役のほかに、ブレーキ役があり、両者でバ ランスを保って暴走を防いでいることを明らかにした。免疫の働きが強すぎると、自分を攻撃する自己免疫病につながってしまう。最新の免疫学の成果を紹介し ながら、生命から社会のありようまで幅広く論じた「免疫の意味論」は93年、第20回大佛次郎賞に選ばれた。

 青年時代から能楽に関心を寄せ、時に自ら小鼓を打った。脳死移植や原爆などをテーマにした新作能を次々発表した。

 01年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、重い右半身まひや言語障害といった後遺症を抱えたが、リハビリを続けて左手でパソコンを打ち、朝日新聞文化欄に能をテーマに寄稿するなど、意欲的な文筆活動を続けていた。




2010年4月20日火曜日

asahi shohyo 書評

アマゾン文明の研究—古代人はいかにして自然との共生をなし遂げたのか [著]実松克義

[掲載]2010年4月18日

  • [評者]柄谷行人(評論家)

■「未開」通念を根本的にくつがえす

  数年前に「秘境アマゾン巨大文明」と題したテレビの報道番組が話題になった。それは、日本とボリビア合同チームによる調査で、アマゾン上流にあるモホス大 平原に、大規模な農業と都市のあとを見いだすという話であった。本書は、この調査の中心にあった著者が、その成果をまとめ、さらに、世界史的に文明を問い 直そうとするものである。

 古代文明の発祥地として、メソポタミア、エジプト、黄河、インダスのほかに、アメリカ大陸では、メソアメリカ(オルメカ、マヤ など)とアンデス(インカ)の文明があげられる。が、アマゾン流域はいつも「未開」の地とみなされてきた。熱帯雨林の環境では、農業文明が成立しないと考 えられたからだ。そのような固定観念に異議を唱えたドナルド・ラスラップは、1950年代から、アマゾン流域こそ文明に最適の地であると考え、アメリカ最 古の文明はアンデス山地や太平洋岸地帯ではなく、アマゾンであり、それが他の地域に広がったのだと主張した。この仮説が実証されるにいたったのは近年であ り、著者らの調査研究もそれに貢献するものだ。

 これは画期的な見方であり、アマゾン流域の原住民に「野生の思考」(レヴィ=ストロース)を見いだしてきた人類学者の見方、そ の影響を受けたわれわれの通念を根本的にくつがえすものだ。というのは、この地の原住民は、発展した農業と都市を一度経験した人たちの末裔(まつえい)で あるから。また、ヤノマミ族を好戦的な未開人の典型として見ることも、人類学者が捏造(ねつぞう)した報告にもとづくことが判明している。

 アマゾン諸地域の都市は、大都市ではなく、小規模の居住地を多く建設し、それらを道路と運河で網目状に連結したものであった。 また、すべてが土で作られ、石が用いられていない。これまで都市の遺跡が見つからなかったのは、そのためであろう。その意味で、他の古代文明とはまるで 違っている。著者は、ここに、自然と共存しうる文明の可能性を見いだしている。

    ◇

 さねまつ・かつよし 48年生まれ。立教大学ラテンアメリカ研究所所長。

表紙画像

野生の思考

著者:クロード・レヴィ・ストロース

出版社:みすず書房   価格:¥ 5,040

kinokuniya shohyo 書評

2010年04月19日

『技術への問い』M.ハイデッガー(平凡社)

技術への問い →bookwebで購入

「技術と科学の本質」

 「技術への問い」は、ハイデガーが戦後の思想的な世界に復帰するきっかけとなった重要な講演の記録である。戦争責任を問われていたハイデガーが、一九五 一年にやっと教職への復帰を認められた後、一九五三年にこの論文の基礎となった講演によって大きな成功を収めたのだった。

 ハイデガーが技術の問題を選んだことは、きわめて戦略的な選択だったに違いない。広島と長崎の惨禍が露出させた現代技術の問題は、ハイデガーにとって は、哲学的な思索をアクテュアルな問題と結びつけるための重要な手掛かりになると同時に、戦勝国の戦争責任を問うという意味ももっていたはずからである。 ナチスの桂冠法学者として戦争責任を問われていたカール・シュミットが同じように、広島と長崎の原爆投下を、アメリカの戦争責任として問う姿勢を示してい たことが思い出される。

 ハイデガーの戦略とは別に、第二次世界大戦の終結とともに、技術の問いが哲学の問いとして突出してきたのは、たしかなことだろう。理論的な知と しての自然科学と比較して、技術は科学的な知の応用であると考えられることが多い。自然科学的な知識は、真理を探求するものであり目的であるが、技術はそ れを利用する手段にすぎないと考えがちである。

 しかしハイデガーは技術というものを、たんに科学的な知識に基づいて、人間が世界を自分のために作り替えていくことという意味では解釈しない。そ れは二つの意味においてである。一つは、人間が自然科学という「真理」を開拓してゆこうとしたのは、技術的な必要性に基づいていたからではないかと考える からである。「自然科学が技術の基礎なのではなく、現代技術のほうが現代科学を支える根本動向なのである」(p.166)。技術が道具的な目的として科学 にしたがうのではなく、科学が技術の目的の「はしため」であるかもしれないのだ。

 もう一つは、人間の欲望にしたがうものは、科学ではなく技術だということである。ハイデガーは人間の欲望はそもそも抑えることができない性質のも のであることを指摘する。人間は不可能なものを意志するからだ。「蜜蜂の一群は彼らにとって〈可能なもの〉のうちに住んでいる」。ただ人間の意志だけが、 こうした〈可能なもの〉の領域に安住していることを拒むのである。

はじめて意志が、全面的に技術のうちに整備されて、大地を力づくで疲弊させ、濫用しつくし、人工のものに変えてしまうのである。技術は大地を、それにとっ て〈可能なもの〉という元来の圏域を超えて、もはや〈可能なもの〉ではなく、したがって〈不可能なもの〉であるようなものへと強いる (p.145-146)。

 そしてこれはもはや押しとどめることができない。「現代技術の際限のない支配がなにものにも制止できなくなっている」(p.167)ことは、ぼく たちも認めざるをえない。というのは、人間は技術によって可能であると考え始めたことを、諦めることができないもののようだからである。だとすると、この 先に待ち受けているものの恐ろしさは、ぼくたちの想像を絶するものかもしれない。

 しかしハイデガーは同時に、こうした危険が生まれるときに、そこに「救い」の可能性も生まれるのではないかと示唆する。ヘルダーリンの詩は「しか し危険のあるところ、/救うものもまた育つ」(p.46)と語るからだ。それでは人間の欲望を制御することのできるものは何か、「大地の恵みを受領し、そ してこの受領の掟にしたがって、存在の秘密を見守り、〈可能なもの〉の犯しがたさを見張るために、故郷に住み慣れる」(p.146)ことを可能にするもの はなにか。ハイデガーがそこに秘めたメッセージは明らかだろう。

 本書はこの「技術への問い」を冒頭に、技術論に関連した文章「科学と省察」「形而上学の超克」「伝承された言語と技術的な言語」「芸術の由来と思 索の使命」の合計五本の文章を編集して翻訳したものである。周到な訳注とともに、読みやすい翻訳でハイデガーの技術についての思考の現場に立ち会わせてく れる。


【書誌情報】
■技術への問い
■M.ハイデッガー/著
■関口浩/訳
■平凡社
■2009/9
■262p
■ISBN 9784582702286
■定価 2800円

●目次
技術への問い−一九五三年−
科学と省察−一九五三年−
形而上学の超克−一九三六−四六年−
伝承された言語と技術的な言語−一九六二年−
芸術の由来と思索の使命−一九六七年−


→bookwebで購入

2010年4月17日土曜日

asahi archeology biology kujira whale Gunma

群馬で発見のクジラ化石、新属だった 1100万年前

2010年4月17日1時20分

写真:発見されたクジラの新種の頭部(上)の化石。長さ約75センチ=群馬県富岡市上黒岩の県立自然史博物館発見されたクジラの新種の頭部(上)の化石。長さ約75センチ=群馬県富岡市上黒岩の県立自然史博物館

 群馬県高崎市吉井町の鏑川(かぶらがわ)から2002年に発見されたクジラの化石が、約1100万年前(後期中新世)の新属新種だと判明した。県立自然史博物館が16日に発表した。3月の米学術誌で紹介された。

 群馬の呼称「上毛」や、発見者の同県みどり市職員の清水勝さん(41)の名前から「ジョウモウケタス属シミズアイ」と命名された。

 発表によると、化石は頭蓋骨(ずがいこつ)と下あご、椎骨(ついこつ)の一部。約200万年前までに絶滅したヒゲクジラ類のケトテリウム科の新属新種で、全長は推定約4メートル。鏑川は大昔は海の底だった。

 進化解明のカギとなる頭部の化石がそろい、保存状態もよいため、現存するシロナガスクジラとわかれて進化した過程の解明が期待できるという。ヒゲクジラの新属が国内で発見されたのは08年以来。

 化石は同県富岡市上黒岩の同博物館(0274・60・1200)で17日〜5月9日に特別展示される。



asahi manga

テルマエ・ロマエ(ヤマザキマリ)

2010年4月16日

  • 筆者 松尾慈子

表紙テルマエ・ロマエ[作]ヤマザキマリ

 「マンガ大賞2010」を受賞し、各メディアでも大反響の本書。マンガ好きの方ならすでにご存じかと思うが、私も最近になってようやく読んで感銘を受けたので、ぜひ紹介させてほしい。前回で「good!アフタヌーン」祭りと掲げておきながら、すみません。

 舞台は紀元128年の古代ローマ、公衆浴場の設計技師・ルシウスはアイディアに悩んでいると、なぜか現代の日本にタイムスリップしてしまう体質に。しか し、場所は風呂限定。あるときは日本の銭湯に、あるときは露天風呂に、あるときは湯治場に、風呂を介して時を超え現代日本に来たルシウスは、巨大な一枚板 の鏡やプラスチック素材など、見たこともない物たちの技術の高さにうちのめされる。だがその敗北感にめげず、日本の風呂文化を古代ローマに持ち帰って浴場 を設計、大人気を博すようになる。

 確かに、古代ローマ人にとって、現代日本の風呂まわりは驚きだろう。ルシウスがウォシュレットと出会ったときの描写が秀逸だ。個室に入ったとたん 開く便器のふたと流れる音楽に驚き、「便をするだけのために、何人の奴隷を使っているのだ!?」と驚愕する。そして、用便後、突然尻にあたった水に驚き 「何をするか 無礼者!」。そりゃあまあ、突然水がお尻にあたったら、誰だって驚くよねえ。

 ルシウスの仕事熱心さも笑いを誘う。冷たく冷やされたフルーツ牛乳、均整のとれた形をした牛乳ビン、柔らかな温泉タマゴ。すべてがルシウスにとっ ては驚きで、「自分は浴場の技師としてすべての知恵と努力を注いできたと思っていたがそれは愚かな自負にすぎなかった」と絶望感に打ちのめされる。だが 「他民族の学ぶべき文明を学ぶのは明日のローマのため!」と立ち直ってあらゆる物を記憶に刻むのだ。

 確かに、現代日本って風呂への欲求が高いよねえ、風呂なんて、ただの垢を落とすだけの場所のはずが、テレビ見たり、飲食したり。「快楽追求の熟練度はローマ人の比ではない」とルシウスが驚くわけだよ。

 かつて私が様々な国を旅行していたとき、地中海沿岸のローマ時代の遺跡には必ず風呂があるのを疑問に思っていたが、そうか、ローマ人は今の日本人 のように深く風呂を愛していたのね。ルシウスは日本人を「平たい顔族」と名付けたが、我々とあなたはとっても似ているのよ〜〜。

 本書の中の文章で触れているが、作者はイタリアで学生生活をすごし、現在はポルトガル在住とか。その結果が、この濃厚な古代ローマのマンガなわけ だ。作者のブログによると、これからは古代ローマの生活に視点をおいて話が進むようだ。1巻の最後で嫁に逃げられたルシウスの行く末が気になってたまらな いぞ。




2010年4月14日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年04月14日

『青い野を歩く』クレア・キーガン(白水社)

青い野を歩く →bookwebで購入

「寒い日に読みたい憂愁のアイルランド・バラッド短篇集」

 読むだけでこれが北の国であることがわかる。色彩はそう豊かではなく、干し草やナナカマドなど南ではあまり見られない植物が風景の中によく出てくる。装 丁の風景が静かなように、小説も静かだった。冬に読んだのが良かった。この寒い時期とアイルランドの風土がマッチしていて通勤時間が豊かになった。

 憂愁のアイリッシュ・バラード短篇集。アイルランドの作家はフランク・オコナー、ジョイス、マグガハン、トレヴァーなどを読んだが、どれも憂愁 漂う作品だったように思う。この物語もどこか憂愁漂う孤独な物語が多いのだけれど、最後の最後で毎回救われる気持ちになる。特に表題作「青い野を歩く」の ラストシーンは秀逸。

神はどこにいるのか、と彼は問うた。今夜、神はその問いに答える。あたりの空気は、野生のアカスグリの茂みの独特の香りに満ちている。一頭の子羊が深い眠りから目覚め、青い野を横切る。頭上では、星が転がって位置におさまる。神は、この自然だ。(P.50)

 ここでも静かな北の風景が見える。子羊が青い野を横切る。青い野というのがまた良い。夜明けが来て子羊が横切り、神父が救われ、読者も救われる気持ちになる。
それが削ぎ落としたような簡潔な文体で作られている。解説にもあるが、書かれているものよりも書かれていないものが行間から浮かび上がってくる。登場人物 は決して多くは語らないのだが、ある瞬間に堰を切ったように過去や思いを語り始める。沈黙があるからこそ、その思いが強く印象づけられるのだろう。「青い 野を歩く」でこういう場面がある。

彼女は、語りつくしてはじめて、人は自分を知ることができると言った。会話の目的は、ひとつには、自分はすでになにを知っているのかを発見することにある。(P.48)

 黙っていても己を知ることができないということ。キーガンにとって書くというのは己を知るための読者との会話なのかなと思った。ならば読者は気合いを入れなければ。言葉が少ない中でこんなことを言われると、そうだなあと思ってしまう。
ところどころでキーガン本人が垣間見えるときがある。小説は虚構のものだが、そこにキーガンが実際に見たであろう瞬間を見つける楽しみがこの小説にはある と思う。美しい描写を探すのも良い。ほとんどがそれだ。けれど、くだらないというか、この場面を抜かしても小説として成り立つのだけれど、この場面は見て ないと体験してないと書けないのではないかと思える場面がいくつかある。そこにキーガンの素があるのでは。

彼女は帽子を脱ぐが、どこに置けばいいかわからなくて、また頭にかぶる。(P.29)
体をかがめて探すと、フライドポテトと卵が二個載った大きなほうろうの皿が、オーブンのなかで干からびていた。(P.92)
若者はサーモンの身を骨からほんの少しはがす。(P.146)

 細かいところまで行き届いたキーガンの眼には脱帽。蛇足と感じられないのは語りの妙だと思う。こういう箇所がキーガンの素を垣間見る瞬間じゃないかなと思った。こういう箇所が出てくると、こっちも無防備になりキーガンとの会話がぐいぐい進んでいくような気がした。

 ベスト短篇は「波打ち際」。人生の波打ち際という話である。青年の祖母は若い頃に「どうしても海が見たい」と冷酷無比な祖父に頼む。そこで一時間 で戻ってこなければ祖父は先に車で帰るという。祖母は祖父に置き去りにされそうになりながら、どうにか車に乗り込んで、自分を置き去りにしようとした男と 一生添い遂げることになる。それが人生の波打ち際だったのだ、と祖母は青年に語る。短篇としてびしっと決めてきやがった。そして、青年も今、人生の分岐点 に身を置いている。

 こんな末恐ろしい祖父なんてやめとけと思うが、ずっと一緒にいなければならない。大きな強制力のような力に突き動かされる瞬間ってある。なぜか、 自分がこうしたいわけではないのに、そうせざるを得ないときがある。祖母の憂愁が青年の未来をより憂愁にさせてしまう暗い話だ。好きだ。

 「クイックン・ツリーの夜は」はもはや呪術。ヤギが大好きな男スタックと火のような女マーガレットのラブストーリー。

あたしたちを突き動かすのは、心じゃなくて、胃袋なのね(P.194)

 これ名言だと思いました。対して、スタックは異常なほどヤギを愛していて、かわいく思えてくる。ケルト民話をからませたアイリッシュ・マジック・リアリスモのような作品。

 生まれた場所がその文学の世界観を決定づけることがよくわかる名作だった。語ること、言葉、会話、沈黙がこの短篇小説のキーワードになると思った。


(紀伊國屋書店ピクウィック・クラブ 榎本周平)


■ワールド文学カップ参戦中!
  『青い野を歩く』と合わせて読みたい本■

・アリステア・マクラウド『冬の犬』新潮クレストブックス
カナダ作家。極寒、厳冬の地に生きる人々の話。冬に読みたい小説ベスト1。
・ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』国書刊行会短篇小説の快楽
アイルランドの短篇作家。トレヴァーは登場人物を盛り上げといて、最後に彼らを打ち落とす恐ろしきスナイパー。
・ガブリエル・ガルシア=マルケス『エレンディラ』ちくま文庫
実は一番最初にこの小説が思い浮かんだ。キーガンを読むとすぐに北の物語だとわかるように、『エレンディラ』を読むとすぐに南だとわかる。キーガンにはケルト民話、マルケスにはマジックリアリズムという幻想性もある。共通項は土地に根付いた話。

※『青い野を歩く』は立川読書倶楽部の第一回課題図書でもあり、倶楽部メンバーの方々の他の書評は立川読書倶楽部WEB会報からも見ることが出来ます。非常に楽しいホームページです。(蜷川)


→『青い野を歩く』をbookwebで購入

kinokuniya shohyo 書評

2010年04月08日

『言葉と死 — 否定性の場所にかんするゼミナ−ル』ジョルジョ・アガンベン(筑摩書房)

言葉と死 — 否定性の場所にかんするゼミナ−ル →bookwebで購入

「アガンベンの力技」

 アガンベンが一九七九年から一九八〇年にかけた行ったセミナーの記録であるが、「そこで議論された考えと素材をわたしがだれにでも納得してもらえそうな かたちにまとめ直して提示したもの」(p.8)だそうである。しかしセミナーのかなり気軽な雰囲気と、活発な議論を背景として示されたアガンベンの思考の 軌跡は、意表をつくものである。

 ハイデガーは動物と人間の違いを、人間は死ぬことのできるものであると定義していたことに基づいて、アガンベンはハイデガーの示した「死へと先駆する」 存在である人間は、動物とは違ってすでに否定的なものをその内部に蔵していることを指摘する。これはハイデガーの哲学の基本であるから、それ自体は当然の ことだ。

 アガンベンのすごさは、それをヘーゲルの『精神現象学』の最初の「感覚的な確信」のところにでてくる「このもの」と結びつけたことだろう。ヘー ゲルは人間が知覚することの確実さ、「ほらここにあるこのもの、これほど確実なものはないだろう」というごく自然な確からしさを反駁する。「このもの」と は、違う場所においては違ったものを指すし、違った人によっても違うものを指すからだ。

 「今」は確実だろうといっても、昼のうちに「今」と書いておいて、それを夜になってみたら、今は昼ではなく、夜だろう。そこで明らかになるのは、「もっとも具体的な真理であるようにみえていたものがたんなる一般的な概念でしかない」(p.34)ということなのだ。

 もっとも自明で確実なものに思えたものが、自明でも確実でもなかったというこの経験をアガンベンは二つの方向に延ばしてみせる。一つはヘーゲルが すでに考えていた方向であり、それはアリストテレスが『形而上学』の第八巻で、実体として主語になりうるものは、具体的な個物しての「このもの」(トデ・ ティ)である語ったことにさかのぼるものである。

 このものはいかなる本質の定義よりも先に、具体的な個物として実体であるはずであったが、そのものはいかなる表現も拒むものにすぎないのであり、 これはギリシア語においては結局は冠詞の機能にまで縮減される。そこでアガンベンは古代から中世にいたる文法学者の冠詞の議論を跡づけることになる(これ はハイデガーの博士論文でもすでに部分的に考察されたことだった)。

 もう一つの方向は、「このもの」や「今」が言語学的にはシフターと呼ばれる特殊な機能をはたすものであることに注目するものである。「今」は語り 手と語る時に応じて、異なる意味をもつ。「ここ」も「わたし」もそうだ。ここには他の語では定義によって示される明確な「意味」のようなものが不在なので ある。

 どちらも言語のうちに潜む否定的なものの存在を明らかにするものであるとアガンベンは考える。この否定性は、それが書き付けられたときには、もは やその本来の意味を失うというところにある。「今」は発語した瞬間には確実なものでありながら、書き付けられた文字となったときには、すでに失われたもの である。この否定性を担うのは、文字ではなく、「それを発語する音声」(p.84)である。

 アガンベンはこの〈声〉が、形而上学の歴史のうちで見失われた重要な要素の一つだと考える。「音声の除去と意味の出現の間にあっての言語活動の生 起は、その存在論的・意味論的次元が中世の思想の中に出現するのを見たもう一つの〈声〉である」(p.92)というのだ。記号のうちでは見失われてしまう この〈声〉、否定性の刻印でありながら、そもそもそれなしでは意味も言語もありえなかったはずのこの〈声〉を、アガンベンが救いたいかのようである。アガ ンベンはこの目論見を「エティカ、あるいは声について」と名付けている(アガンベン『幼児期と歴史』、邦訳二ページ)。

 もちろんこの試みは、デリダの音声中心主義の批判に同調するところはありながらも、むしそれと正面から衝突する。そのためにデリダ批判の論拠は しっかりと用意されている。この書物では、ヘーゲル、ハイデガー、バタイユ、デリダへの批判の姿勢が顕著であることも、目立つところだ。

 現代のイタリアの詩人レオバルディの作品における「この」という用語の使い方の考察など、セミナーの参加者にも配慮したアガンベンのこの著書は、 力技で飛び跳ねるだけでなく、しっとりと落ち着いた考察も展開される。どれだけ思考に自由な冒険を許すか、その見極めがきわめて巧みな書物だと思う。「そ こまで行くか……」と思わず唸るところもあって、ぜひ一読を勧めたい。


【書誌情報】
■言葉と死 — 否定性の場所にかんするゼミナ−ル
■ジョルジョ・アガンベン
■上村忠男訳
■筑摩書房
■2009/11
■276p / 19cm / B6判
■ISBN 9784480842893
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/large/4480842896.jpg
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/4480842896.jpg
■定価 3150円

○目次
ダーザインと死
否定性の起源の問題
"無"と"〜でない"
言葉—ダー‐ザイン、すなわち、"ダー"であること
否定性はダーザインにそれ自身の"ダー"からやってくる
無の場所の保持者としての人間
ヘーゲルとハイデガー
エレウシス
ヘーゲルと言い表しようのないもの
『精神現象学』の第一章における感覚的意識の清算〔ほか〕


→bookwebで購入