2012年8月3日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年07月31日

『『舞姫』エリス、ユダヤ人論』 荻原雄一編 (至文堂)

『舞姫』エリス、ユダヤ人論 →bookwebで購入

 エリスのモデル、エリーゼ・ヴィーゲルトの実像が判明したのだから今さらであるが、何が書いてあるのだろうという好奇心から読んでみた。ユダヤ関係では凡人には理解しがたい天才的なひらめきで書かれた本をよく見かけるが、本書も超天才のひらめきを満載した本だった。

 たとえば劈頭に置かれた「『舞姫』再考」の「エリーゼの腸の長さは」という条。この論文の著者で本論集の編者でもある荻原雄一氏はユダヤ人には食物の禁忌があると指摘して次のようにつづける。

 では、ユダヤ人の腸の長さは、どうであろうか。彼らはヨーロッパに住みながら、日本人と似たような食事をしている。鷗外が興味を持たない訳はないだろう。

 しかも、この『日本の食物問題』は、カルルスルーエへ旅立つ十日前に、ベルリンで(それもクロステル街に下宿していたときに)書きあげたのだ。この時期を考慮しながら、エリスのモデル問題に触れると、刺激ある結論が出るのではないだろうか。

 確かに刺激的な結論である。鷗外がエリーゼに近づいた理由は彼女の腸の長さにあったからというのだから。ユダヤ人の腸が東洋人なみに長いとはナチスの人類学者もびっくりであろう。

 同じ論文には豊太郎とエリスが出会った場面で、豊太郎が葬式代のために時計をわたしたのは「小説構成上の破れ目」だという指摘もある。金のもちあ わせがないならいったん下宿にとりに帰るか、あるいはエリスを下宿の前まで連れてくればよく、時計をわたすのは不自然だという趣旨である。

 なぜそれが不自然なのか、わたしは頭が鈍いので理解できないが、荻原氏はエリスがゲットーの住民ならこの問題は解決すると書いておられる。

 ところが、エリスはユダヤ人の貧民階級で、ユダヤ人街、それもいわゆるゲットーに住んでいる設定なのだ。すると、この小説の構成上の破れ目の場面は、少しも破れ目でなくなる。つまり、ゲットーの扉は、夜になると締まってしまうのだ。外部との交流はいっさいできなくなる。このため、豊太郎が下宿にお金を取りに帰って戻って来ても、ゲットーの中に入れない。またエリスをつれて行ったら、今度はエリスが戻れない。

 すなわち、時計を置いてくるしか方法がないのである。

 天才的な着眼で敬服するしかないが、ただ一つ難点がある。ベルリンにはゲットーがなかったことである(山下萬里氏は「森鷗外『舞姫』の舞台・三説」(本書所収)でゲットーがなかったという文献を引用しておられるが、荻原説との矛盾には論及しておられない)。

 他にもエリスの言葉が訛っていたのは両親が地方出身者だからではなくユダヤ人だからだとか、母親がエリスを身売りさせようとしたのは律法にしたが うためだとか、森家がエリスとの結婚に反対したのは彼女がユダヤ人だったからだとか、天才的な断定が次々とくりだされるが、後につづく諸論文に一番影響し たのは次の条だと思われる。

 結局、ヴァイゲルトもヴィーゲルトもワイゲルトも、みな源は<ヴァイカント>で、ユダヤ人のファミリー・ネームである。このため、カール・ヴァイ ゲルト博士とエリーゼ・ヴァイゲルト(ヴィーゲルト)に縁故関係があろうがなかろうが、博士もエリーゼもそのファミリー・ネームからユダヤ人なのである。

 根拠といってもヴァイゲルトという姓に著名なユダヤ人がいたという程度のことではないかと思うが、ユダヤ問題のような不案内な分野で自信たっぷり に断言されてしまうと、わたしのような知能の低い人間はそうだったのかと恐れいってしまう(この説になんの根拠もないことは六草いちか氏が『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』でナチスの国勢調査を史料に論証済みである)。

 カール・ヴァイゲルトとエリーゼ・ヴァイゲルトという名前が出てくるが、前者は金山重秀氏の「エリーゼの身許しらべ」(本書所収)が見つけだして きた名前で、鷗外がライプチヒ大学に籍をおいていた当時、病理学研究所所長代理の職にあった。後者はテレビ朝日系列で1989年5月に放映された「百年ロ マンス・舞姫の謎」が発掘した名前で、カール・ヴァイゲルトの縁者にあたる。鷗外と別便で来日した女性の名前がいくつかの英字新聞の来航者名簿に残ってい てエリスのモデル探しの基本史料となっているが、一紙だけ Elise Weigertとなっている例があり、それと一致したことから番組ではエリスのモデルと断定されていたという。

 わたしは「百年ロマンス」を見ていないが、本書の中の詳細な紹介によると番組はエリーゼ・ヴァイゲルトを中心に作られていたようである。彼女は 1857年にフランクフルトの裕福な銀行家フルダ家に生まれ、実業家のリヒャルト・ヴァイゲルと結婚した。結婚直後から第一次大戦までヴァイゲルト夫人は 月一回文学サロンを主宰していたが、日本文化に関心が深く日本の文物をならべた「日本の間」を作っていた。彼女は鷗外より5歳年長で、鷗外が留学していた 頃には二人の子供がいた。もし彼女が鷗外を日本に追いかけてきたとなると不倫ということになる。彼女の息子の嫁と孫にインタビューしたが、日本に行ったと いう話は聞いていないと答えたとのこと。番組の最後では彼女が埋葬されているユダヤ人墓地が映しだされたようである。番組がヴァイゲルト姓がユダヤ人特有 の姓であるとしていたかどうかは本書ではわからなかった。

 本書には14本の論文が収録されているが、そのうちの12本は「百年ロマンス」が放映されて以降に発表されており、同番組に直接言及しているもの は7本を数える。直接言及していないものも「百年ロマンス」を論じた荻原論文を参照している。「百年ロマンス」以前に発表された2本も「この番組の母体」 となっているということである。西成彦氏は『世界文学のなかの『舞姫』』巻末の「読書案内」で本書を詳しく紹介しているが、「本論集も大筋では(「百年ロマンス」と)同じ流れに沿っている」と要約している。

 「同じ流れ」といっても、「百年ロマンス」の結論をそのまま受けいれている論者はいない。5歳年長の二人の子供のいる人妻との不倫という点が批判の的になっているのだ。

 「百年ロマンス」に対する鷗外研究者のアンビヴァレントな評価の典型的な例は荻原雄一氏の「「エリス」再考」という論文だろう。

 荻原論文は「日本の間」を作ったこと自体が彼女がエリスではない証拠だと指摘する。愛人を追いかけて日本とドイツの往復に3ヶ月、日本滞在に1ヶ 月、合計4ヶ月も家を空けておいて元の鞘におさまるのは難しいし、万が一夫が許したとしても、堂々と「日本の間」を作るわけにはいかないだろうというの だ。

 もっともな推論であるが、ここから荻原氏の超天才の推理がはじまる。

 荻原氏はヴァイゲルト夫人がエリスではないと断定しながら、鷗外とは関係があったはずだという。一例だけにせよ来航者名簿と一致したエリーゼ・ ヴァイゲルトという名前、エリスというニックネーム、そしてカール・ヴァイゲルトの縁者という点をあげ「これを偶然だ、ではとても片付けられない」とす る。

 このジレンマを解決するために荻原氏はヴァイゲルト夫人の文学サロンには男客をもてなすために、歌手や踊り子といった芸能関係の仕事に就いている 貧しいユダヤ人の娘を集めていたはずだと断定する(実地調査をしたわけではなく、超天才のひらめきにもとづく断定である)。そして、こう書いておられる。

 ここで、一つの推理を提言する。舞姫のエリスのモデルであり、鷗外を追って来日した少女は、エリーゼのサロンの片隅に咲いた、この<小さな草の華>のうちの一人ではなかったか。

 この後、<小さな草の華>を証明する物証として「百年ロマンス」に登場した九谷焼の皿の考察がおこなわれるが、超天才の炯眼によって謎の少女<A>にたどりつく推理は凡人の頭ではとてもついていけない。

 荻原論文は「百年ロマンス」を批判しておられるが、真下秀樹氏が「『舞姫』と19世紀ユダヤ人問題」で荻原論文を「この番組の結論を延長した線に おいて独自の結論を出している」と評価しておられるように、「百年ロマンス」の否定ではなく批判的継承というべきだろう。本論集に掲載された論文はいずれ も荻原説を当然の前提として受けいれた上で論を展開しており、荻原氏のエリス=ユダヤ人説が鷗外研究者の共通理解になっていた情況がうかがえる。

 なお本書の前年に出版された植木哲氏の『新説 鷗外の恋人エリス』については「<あとがき>にかえて」で荻原論文のパクリという見方が示されているが、植木氏の研究は地道な実地調査によって「百年ロマ ンス」の結論を全面否定したのであって、超天才のひらめきによって書かれた論文とは性格を根本的に異にする。

 それにしても「百年ロマンス」という番組の影響力には驚かされる(こういうトンデモ番組はぜひ見てみたい。誰かYouTubeにあげてくないだろうか)。エリス=ユダヤ人説はいい加減なテレビ番組が学界をひっかき回した例として記憶されるべきだろう。

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2012年07月31日

『現代語訳 舞姫』 山崎一穎監修、井上靖訳 (ちくま文庫)

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 『舞姫』くらいで現代語訳なんてと思ったが、井上靖が訳した『舞姫』があるというので読んでみた。

 もともとは1982年に学研から出た『カラーグラフィック明治の古典』シリーズの鷗外の巻のために訳されたが、2003年に筑摩書房から出ている高校用の国語教科書『精選 現代文』に再録された。ちくま文庫版は『精選 現代文』の方を底本としたという。

 鷗外の原文と井上靖の現代語訳にくわえて監修者の山崎一穎氏による60ページ近い解説があり、さらに資料篇として星新一『祖父・小金井良精の記』 と小金井喜美子「兄の帰朝」のエリス関連部分の抜粋、前田愛氏の『都市空間のなかの文学』から『舞姫』を論じた「BERLIN 1888」の抜粋が収められている。星新一と小金井喜美子の文章はエリス問題の一次資料として定番だし、「BERLIN 1888」は日本文学の研究に記号学と都市論を導入したことで知られる有名な論文である。

 欲をいえば森於莵と小堀杏奴の抜粋がほしかったし(小金井喜美子はなくてもいい)、『うた日記』から「扣鈕」をもってきてもよかっただろう。

 『舞姫』の原文と現代語訳は一回り大きな活字でゆったりと組まれ、下段に注釈がはいるようになっている。原文49ページに対して現代語訳は58 ページと20%ほど増えている。日本の作家には大きくわけて和文系統の人と漢文系統の人がいる。鷗外はもちろん漢文系統だが、井上靖もそうである。井上靖 の文章も簡潔といわれているが、それでも20%近くも増えてしまうのだ。

 井上靖は『舞姫』をどう料理しているか。豊太郎がエリスと出会う場面を読み較べてみよう。まず現代語訳。

 相手はおしはかれぬほどの深い歎きに遭って、あとさき顧みるひまもなく、ここに立って泣いているのであろうか。私の臆病な心は憐愍の情に打ち負かされて、私は思わず傍そばに寄って、「なぜ泣いておられるのか。この土地に繋累のない外国人の私は、却って力を貸して上げ易いこともあろう」と言いかけたが、われながら自分の大胆さに呆れている気持ちだった。

 台詞がまるっきり井上靖調なのが笑える。同じ箇所の鷗外のテクスト。

 彼ははからぬ深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「何故に泣きたまふか。ところに係累なき外人よそびとは、かへりて力を貸しやすきこともあらむ。」と言ひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 「嘆き」を「歎き」、「係累」を「繋累」のように井上訳の方が見慣れない漢字を使っているように思うかもしれないが、本書に収録された「原文」は 高校生向けのテクストなのか、見慣れた漢字に書き直されている。オリジナルに近い「青空文庫」から引用すると以下のようになる。

 彼は料はからぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みる遑いとまなく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えず側そばに倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人よそびとは、却かへりて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 井上訳は鷗外の措辞をできるだけ忠実になぞろうとしていることがわかるだろう。訳文もほとんど直訳といっていいくらい原文に近い。鷗外に対する井上の敬愛の念がそれだけ深いということだと思われる。

 予想以上にいい現代語訳だと思ったが、オリジナルに近づこうといているだけに、難解と感じる高校生がいるかもしれない(大学生だって怪しい)。現 代語訳のさらに現代語訳が必要になってしまっては現代語訳の意味がない。このくらいは味読してほしいと思うが、さてどうだろう。

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kinokuniya shohyo 書評

2012年08月02日

『ドリアン — 果物の王』塚谷裕一(中公新書)

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「ドリアンと�消える魔球�」

 本書の冒頭に、「ドリアンという言葉を聞くと、たいがいの日本人はにやりとしはじめる」とある。さっそく、ある飲み会の席上「すいません、実はド リアンのことなのですが…」と切り出してみると、あら不思議、みな「にやり」としはじめた。これはすごい。みなドリアンのことを知っている。しかも、ドリ アンと聞くと、思わず口元にゆがんだ笑みを浮かべずにはおられないようなのだ。

 たしかにドリアンは人騒がせな果物である。とにかく臭い。本書目次のトップにはわざわざ「1−1ドリアンは臭くない」というセクションがあって、 これだけでもすごくあやしいのに、「1−2」は「ドリアンが臭いと感じる人もいる」、そして「1−3香りの感じ方」、さらに「1−4ドリアンの香りをめぐ る論争」とあり、これをながめているだけで鼻がむずむずしてくる。

 実はドリアンが臭いか臭いないかはほんとうのところは決定不能で、要するに「匂いの反応には個人差がある」「嗅いでいるうちに鼻が麻痺してくるこ ともある」「臭いドリアンは外れ。優良ドリアンは臭くない」ということらしい。ただひどいドリアンになると、ほんとうに鼻が曲がるような匂い(を感じる人 もいる)とのこと。「腐ったキャベツ」「にんにく臭」「古くなった肉」などとも形容される匂いだそうで、著者が研究室で学生とドリアン・パーティを行った ときには、隣の研究室の人々が「ガス臭がする!」と騒ぎ出して、本当にガス会社に通報してしまったこともあったという。

 しかも、あの見かけである(本書にはドリアンの近影が満載)。まるで「鬼に金棒」の「金棒」についている突起みたいだ。ハリネズミの針のようでも ある。漫画に出てくるダイナマイトのようでもある。ボーリングの球くらいの大きさだから、20〜40メートルもあるドリアンの樹から果実が落ちてきて頭を 直撃したら、あの棘が刺さって死んでしまうかもしれない。実際、オランウータンが樹の上から雨あられとドリアンを投げつけ、人間を追い払ったという事例も あるらしい。(これこそ漫画だ)

 にもかかわらず、著者の塚谷裕一氏はドリアンがいかにクリーミィーな美味か、いかに安いか、いかにこだわり甲斐のあるすばらしい果物であるかを 切々と説くのである。何よりも東南アジアに行って、街角で売られているのを食べるのがいい。そういうときに、売人に騙されずにいかにいいドリアンを見分け るか。どうやって皮を割って種を覆う果肉にたどりつくか。どうやって指ですくって食べるか。食べきれなかったら、いかに煮詰めて羊羹にするか。いかにドリ アンジャムだって作れるか。とにかくおいしいドリアンに出会ったときのその幸福ときたら……。ドリアンの美味を描写する様々な作家たちの文章をならべなが ら、塚谷氏は「ドリアン的幸福」を生きなおすかのようである。

 というわけで、本書はタイトルから想像される通り、ドリアンのさまざまな魅力を、正確な科学的知見をもとに読みやすくてやわらかい、それでいてき ちっとした安定感のある文章でつづったものである。しかし、筆者が今回の評で伝えたいのは、それだけではない。本当に気になるのは、この本の著者・塚谷裕 一その人である。というか、この人の体現する「植物学的知」のようなものが気になるのである。本書のあちこちにもそれはあらわれている。

 すでに絶版なのが残念だが、塚谷氏には『漱石の白くない白百合』(文藝春秋 1993)という著作がある。表題作は、漱石『それから』に出てくる白百合が「白くない」ことを植物学的に論証したもの。その他、泉鏡花、志賀直哉、安倍 公房、三島由紀夫、井伏鱒二などさまざまな作家が作中で描いた動植物にこだわって、独自の緻密な推理をめぐらすという趣向の文学×植物学エッセー集であ る。たいへんおもしろい。しかし、おもしろいだけならそれほどのことはないのだが、何より気になるのはこれらのエッセーを読んでいると、途中で「消える魔 球」に出遭った気分になることなのである。

 何が魔球なのか。まず塚谷氏が文学作品からそのターゲットとなる植物を取り出す手際は見事である。植物の形状や季節、呼び方、場面のニュアンス、 作家の時代、土地といった要素を実にてきぱきとつないで、息もつかせぬ考察を展開する。殺人事件など起きていないのに、まるで殺人事件があったかのような 緊迫感とともに植物学的知見が駆動される。

 球が消えるのはそこである。出だしの設定の見事さと、結論のあざやかさに読者としては目がくらむような思いがするのだが、ほんとうにたまらないの は話が植物学の専門的な話題になったときの、そのふっと潜行するような冷徹さなのである。つまり出だしと結末で、淡々とした文章ながらも読者に対してサー ビス精神を見せていた書き手が、ふっと本気で「知」の言葉を語ってしまう。そのすべるような移行の素っ気なさというのか、怜悧さというのか、そこがいい。 よくキレのいいスライダーは途中で消えるように見えるというが、きっとそんな感じではないかと思うのである。

 何でそんなことにこだわるのかというと、塚谷氏の見せる怜悧さというのは、実は必ずしも「理系的」と呼べるような限定的なものではなく、広く世界 に対する感受性のようなものを示していると思えるからである。塚谷氏の著述については、一般には「植物学者なのに文学をも扱う幅広い人・珍しい人」という 言い方がされるのかもしれないが、両者はそもそも分離される必要があるのだろうか。こうして塚谷氏の目を通してあらためて文学作品を見ると、少なくとも近 代文学のある時期までは、植物的教養のようなものが作家と世界との関わりにおいて重要な役割を果たしていたのではないかと思えてくるのである。いや、それ は必ずしも狭い意味での植物学に限定される必要もないだろう。世界のあり方について、ふっと潜行するようにして、すべるようにして、ひやっと怜悧な目を光 らせる瞬間が文学作品のそこここにはあったのではないか。もちろん今だってあっていい。

 単におもしろいのではない。ふっと球が消えるような気がして筆者はどきっとしたのである。つまり、自分がそんなふうには世界を見なくなっていたこ とに気がついたわけである。だから球が消えて見える。ということは、小説の読むべき箇所を読み逃しているということだろうか。もしくは、そのように死角と 出遭うことこそが、小説を読むという体験なのか。ともかく、『漱石の白くない白百合』のようないかにも際どい著作に限らず、より一般的な『ドリアン』で も、そこに引用されるさまざまな文献に仄見える「植物学的知」に接してみて、あらためて考えさせられることは多かった。

 もちろん『ドリアン』にはほかにも読み所がある。ドリアンは戦前の日本人の「夢」の跡でもあった。かつて大東亜共栄圏を幻想し南方進出を夢見た日 本人は、南方系の甘味の勝った果物に憧れを抱いた。戦後そのような幻が消し飛び、入れ替わりに西洋風の価値観が流入すると、果物に対する態度がころっと変 わる。「酸味のイデオロギー」の登場である。甘味中心の南方系の果物に対し、酸味の混じり具合を評価するのが西洋風の果物観だった。塚谷氏の「ドリアン礼 賛」は、そうした西洋一辺倒の風潮に異議を唱えるものでもある。なるほど、こちらは言わば「ドリアンの社会学」である。

 本書は2006年の刊行。つい最近の「図書」(2012年6月号)にも著者が「ドリアンの時代とマーラーの時代」という秀逸なエッセーを書いてい るので、まずはこちらをのぞくのもいい。この本の執筆で世にドリアン旋風を巻き起こそうとした著者の思惑ははずれたようだが、それもまた一興である。


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2012年08月03日

『植物はすごい—生き残りをかけたしくみと工夫』田中 修(中公新書)

植物はすごい—生き残りをかけたしくみと工夫 →bookwebで購入

現代日本のビジネス社会は、前に進むことが良しとされ、その結果として続々と発生する矛盾や問題に直面しては、毎日毎日ソリューションの発明を強いられる社会である。私が属しているのはそういう社会である。
立ち止まって考えることさえも困難になりつつある息苦しい環境ではあるが、ビジネスの仕組みや、それを支えるシステム構成の素晴らしさに感動することは多 い。完璧に合理的な仕組みが、人間の知性によって作り出されていて、運用中にエラーが起きるとすぐさま原因を究明し、きれいに修正することが出来る。 そういう社会での習慣が身についてしまっている人にとって、本書で感じ取れる「植物のすごさ」は想像以上のものであると思う。


本書から感じ取れるのは、自分の種族以外の動植物をも巻き込んだ、大きな自然の循環である。自ら動き回ることの出来ない植物は、周囲の動物や環境の力を借 りて自らの種子を拡散させる仕組みを策定しなければならないが、種子を運ぶ動物の行動や環境の変化によって、運が悪ければうまく子孫を残せないので、自分 以外の不確定な要素についてはエラーを許容せざるを得ない。
彼らは途方もなく長い進化の歴史の中で、多少のエラーを許容してなお生き残るための壮大な仕組みを作り出し、工夫を凝らしているのである。寛大である。

たった一部のエラーがすぐさま大問題として顕在化してしまう仕組みの中で、僅かなミスにも怯えている自分の仕事を思うと、何も言わずにそこに生えている草木の寛容さに、畏敬の念を感じずにはいられない。


本書は、多くの身近な植物について実例を挙げながら、植物がどのようにしてからだを守り、逆境に耐えて生きているのかをテーマとした、やさしい解説書であり、文面からは、著者の植物に対する尊敬の念が随所に感じられ、とても心地よい。
渋柿が甘柿になるのはどうしてか、ヒガンバナのイメージとその理由、ハイビスカスの花が鮮やかに赤いのは何故か、など、身近な疑問がストンと腑に落ちるように解説され、とても楽しい。
よく知られた植物の特性に、実は深い理由があったのだと納得するとき、思わず「すごい」と唸ってしまう。
知らなくても生活には困らない知識ではあるが、植物との共存・共生の必要性が大いに注目される昨今、我々人類は、科学的操作によって彼らからの恩恵を享受 することばかり考えるのではなく、彼らの進化の歴史に思いを馳せ、苦労の末に進化を遂げてきた植物たちへの尊敬の念を忘れてはならない。
本書はそう思わせてくれる良書である。


(大阪営業部 宇田静香)


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2012年8月2日木曜日

asahi shohyo 書評

NHK歴史番組を斬る! [著] 鈴木眞哉

[文]青木るえか  [掲載]2012年08月03日

表紙画像 著者:鈴木眞哉  出版社:洋泉社 価格:¥ 935

■視聴者よ、歴史の勉強をしっかりしろ
 著者の鈴木さんは怒ってらっしゃる。いくらなんでも売らんかな でこんないい加減な歴史番組をつくっていいのか!と。時代劇はともかく、いわゆる歴史情報番組。これのデタラメさに怒り爆発だ。読んでいて「なるほどな あ」と思う。史料でわかりきっていることを「あたかも新発見のように」放映したりする。また「著者が指摘して間違いだとわかっていること」を放送している と怒ってらっしゃるが、それはムリもない。そして、鈴木さんがもっと怒るのは、NHKには歴史に対しての定見がない、ということだ。番組によって解釈も事 実認定もガラッと変わったりしている、こんなことでいいのか!と。
 いや、しかし、それはしょうがないのでは。局に歴史解釈の定見を求めても……いや定見はあるのかもしれないが、すべての番組にその定見を徹底させるのは難しいのでは……というよりも、それじゃ番組をつくる上でつまらないんでは……。
  そんなことを言ってるんじゃない!と、さらに怒られそうだ。鈴木さんの言うこともわかるんですよ。でも、人に興味を持ってもらいたいなら、正しいことばっ かりやってるわけにもいかんだろうし。マスコミは視聴者を騙して洗脳しようとしている、という考え方の人がいるようだが、テレビ局がへんな番組をつくっ ちゃうのはたいがい「アイデアの無さ」と「とにかくウケればいい」と「とにかく楽しんでくれりゃいい」が入り混じった結果であると思う。基本は「能力の足 りない人による善意の発露」である。
 そんな中で、NHKの歴史情報番組なんてのはまだマシなほうではないのか、と思ったりするわけだ。作家が出 てきてトンデモ史観を開陳しても、それが織田信長とか柿本人麻呂とかそんな昔のことなら、笑って済ませられるし。いや、だから、それを信じる人がいるから いかんのだと鈴木さんは怒るわけだが、それなら歴史の勉強をしっかりしろ、と視聴者に言うほうが先決と思う。

この記事に関する関連書籍

NHK歴史番組を斬る!

著者:鈴木眞哉/ 出版社:洋泉社/ 価格:¥935/ 発売時期: 2012年05月

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asahi shohyo 書評

穂村弘の感受性を、山田航が分析

[掲載]2012年07月31日

穂村弘(左)と山田航 拡大画像を見る
穂村弘(左)と山田航

表紙画像 著者:穂村弘、山田航  出版社:新潮社 価格:¥ 1,680

 歌人穂村弘(50)の1986年のデビューから近作まで120首を解説した『世界中が夕焼け—穂村弘の短歌の秘密』(新潮社)がでた。21歳年下 の新鋭歌人、山田航(わたる)が個人ブログに連載した短歌評と、それに応えて穂村が創作の過程や真意などを明かした異色の本だ。歌の解釈を超えて、ゼロ年 代以降の世界の変容が浮かび上がる。
 山田は大学生の時、初めて穂村の歌集を読んで衝撃を受けた。「少女マンガのように情景がキラキラしてい た」。短歌の勉強のために、4年前、ブログで「穂村弘百首鑑賞」という連載を始めた。人づてに連載を知った穂村は、読みの確かさと恐れずに断定する書きぶ りを気に入り、一緒に本を作ろうと提案した。
 山田は、穂村の初期作品〈子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」〉に 「己の存在が社会化してゆくことへの拒否と嫌悪」を読み取り、〈その甘い考え好きよほらみてよ今夜の月はものすごいでぶ〉に景気高揚期独特のはしゃぎムー ドを指摘する。穂村は「あのころは何ものにもとらわれずにイメージを駆使していると思っていたのが、実はバブル的感受性に根ざしていた。それがあの時代を 知らない人には一目瞭然で、今となっては恥ずかしい作品もある」と苦笑する。
 だが、山田は「ぼくは輝かしいと思った。ぼくらの時代はひとの気持 ちを読むことをひたすら求められてきた。穂村さんはひとの気持ちが分からないことをマイナスと思っていない。絶対に理解できない相手を愛している気がし た。自分に思いもよらない外部があることに気づけた」という。
 2000年代半ばから、穂村は〈ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検〉のような昭和ノスタルジーを感じさせるうたを作っている。「昭和とは一体何だったのかという感じが強い」という。
  一方の山田は、米国の9・11以降、完全に「イメージと実体の境界線がなくなり、だれもがそれぞれのファンタジーの中に生きる時代になった」と感じてい る。うたうべき現実がイメージになってしまった時、どうやってうたうか。「手がかりになるのは、やはり自分の生まれ育った北海道という場所や風土性みたい なものかもしれない」と考えている。(伊佐恭子)

この記事に関する関連書籍

世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密

著者:穂村弘、山田航/ 出版社:新潮社/ 価格:¥1,680/ 発売時期: 2012年06月

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柳田国男没後50年、鶴見太郎寄稿 民俗学者の輪郭定めた大正時代

[文]鶴見太郎  [掲載]2012年07月31日

鶴見太郎・早稲田大教授 拡大画像を見る
鶴見太郎・早稲田大教授

表紙画像 著者:柳田國男  出版社:岩波書店 価格:¥ 1,365

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 今年の8月8日は柳田国男が死去して50年になる。ちょうど大正100年となる今夏、柳田にとって、大正時代とはどのように位置付けられるのだろうか。奇(く)しくも柳田の誕生日にあたる本日(7月31日)は、そのことを考えるのに相応(ふさわ)しい。
  1919(大正8)年暮れ、貴族院書記官長を辞任することで柳田はひとまず、その官歴を終える。しかし時間的な制約がなくなったこと以外に、在野の人とな ることで彼の学問が変容したかといえば、それは殆(ほとん)どなかったといっていい。さかのぼってみるならば、柳田の民俗学とは、自身のキャリアを抛(な げう)つ程度のことでは微動だにしない力を内に秘めていた。
 民俗学そのものに限ってみても、大正とは柳田にとって多くの曲折を経た時期であっ た。当初、列島先住民説の傍証として掲げていた「山人論」が南方熊楠との論争によって後退し、「毛坊主考」「巫女(みこ)考」等の論考に代表される漂泊民 への注目、そして最終的に21(同10)年の沖縄紀行を経て、同地の祖霊観をもって日本人の「固有信仰」と定めるまで、柳田の軌跡は文字通り変動に満ちて いた。
 その一方で、柳田が終始、こだわり続けたものがある。それは政治・文学・学問を絶えず一体のものとして捉えようとする姿勢である。例え ば、『山島民譚(みんたん)集(一)』(14〈同3〉年)は、馬を水辺に引き込もうとする河童(かっぱ)の姿に零落した神々の残滓(ざんし)を読み取った 比較民俗学の先駆的業績だが、同書において柳田は、カタカナと漢字による表記によって、極力感情を排した平明な記述を行っている。後に同書が再版されるに あたり、柳田は当時を振り返って、官僚的な文体がまかり通っていた中で、自分はなるべく日常的な気持ちに立って復命書など、役所の文章を書いていたとする 序文を寄せている。
 明治の末より柳田が独立した自営農民(中農)の創出を願いつつ地方をまわり、農政に関わる多くの論文を著したことを考えれば、この時、政治と学問は独自の課題を設定する人物の文体と結びつくことによって、互いに分化することなく、緊張を伴いながら均衡を保っていた。
  26(同15)年に刊行された『山の人生』になると、この姿勢はより鮮明な形で打ち出される。よく知られているように、西美濃の山奥で貧しさの余り、二人 の子供を鉞(まさかり)で殺さざるを得なかった老人の話にはじまる同書は、随所に織り込まれた民俗のひとつひとつが、そこに生きる人々によって経験されて いることの重みとなって読む者の眼(め)に迫る。ここにあるのは、まさに文学と学問が未分化の状態にあることの力強さである。
 自身の経歴と民俗観の両面にわたって、変化に富んだ時期でありながら、大正時代の柳田に或(あ)るしなやかな線を引くことができるのは、彼自身が官僚として、そして文学者として続けてきた営みを変えることがなかった所に求められる。
 すでに専門分化がすすんでいた日本の学界に対し、民俗学はそれを横から切り裂くような、清新な魅力を湛(たた)えながら、その基礎を整えていった。今日我々が民俗学者として知る柳田国男の輪郭もまた、この頃に定まったといえる。
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  柳田国男(1875〜1962) 日本民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省に入る。10(明治43)年に『遠野物語』を刊行。11年から南方熊楠と 文通を開始。20(大正9)年に東京朝日新聞社客員となり、沖縄など各地を旅行。21〜23年はジュネーブの国際連盟委任統治委員。24〜30(昭和5) 年に朝日新聞紙上に約400本の論説を執筆。35年に民間伝承の会(後の日本民俗学会)を設立。40年に朝日文化賞、51年に文化勲章。

 鶴見太郎 早稲田大教授 1965年生まれ。京都大大学院博士課程修了。著書に『柳田国男入門』『民俗学の熱き日々』など。

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