2011年7月5日火曜日

あれ、なんで全力支援してるんだ・・・。

松本復興担当相が辞任 被災地での言動に批判、引責

関連トピックス

写真:会見で辞意を表明した松本龍復興担当相=5日午前9時50分、東京都千代田区、竹谷俊之撮影拡大会見で辞意を表明した松本龍復興担当相=5日午前9時50分、東京都千代田区、竹谷俊之撮影

写真 写真:記者会見で辞任を表明した松本龍復興担当相=5日午前9時51分、東京都千代田区、山本裕之撮影拡大記者会見で辞任を表明した松本龍復興担当相=5日午前9時51分、東京都千代田区、山本裕之撮影


 松本龍復興担当相は5日午前、首相官邸で菅直人首相と会談し、復興相を辞任する意向を伝えた。東日本大震災の被災地を訪問した際、知事に対し「知恵を出さないやつは助けない」などと発言したことが批判を浴び、引責した。

 松本氏は復興基本法成立を受け、6月27日に復興相に就いたばかり。震災復興の重責を担う担当相が就任9日目で辞めるという異例の事態となった。菅首相 はすでに辞任表明しているが、松本氏は首相が就任を強く要請しただけに、首相の任命責任が問われ、与野党からの辞任圧力が一層強まるのは必至だ。

 松本氏は首相との会談後、記者団から「退任でいいのか」と問われ、「はい」と答えた。「いい経験をさせてもらった。後ほど会見する」と述べた。







2011年7月2日土曜日

asahi culture life chideji antenna DIY

地デジ、「うちわ」でしのぐ アルミホイルでアンテナに

関連トピックス

写真:うちわのアンテナで地デジの映像が鮮明に映った拡大うちわのアンテナで地デジの映像が鮮明に映った


 地デジ対策が間に合わない人が、急場をしのぐにはどうすればよいのだろうか。

 UHFアンテナが設置されている場合は、4千円ぐらいからある簡易チューナーをアナログテレビにつなげば視聴できる。アンテナが未設置の場合は、室内用 アンテナが数千円から販売されている。UHF波はVHF波に比べて室内アンテナでも受信できる可能性が高く、画質はアンテナの精度に左右されにくいとい う。

 うちわで室内用アンテナを作る方法もある。

 用意するのは、うちわ1枚、キッチン用アルミホイル、アンテナ用同軸ケーブル1本、コネクター1個。

 (1)うちわの縁だけのり付けして片面をアルミホイルで覆う

 (2)アルミホイルの中心部を直径10〜15センチの円状にくりぬき、うちわの柄の付近はアルミホイルを切り離してC字形にする

 (3)C字に切り離した部分にアンテナケーブルから出ているコードを二股に分けて貼り付ける

 (4)アンテナケーブルのもう一つの端にコネクターを取り付けてテレビに接続する

 アルミホイルを付けた面を窓の外に向けると電波を拾いやすくなる。(大津正一)





2011年7月1日金曜日

asahi society shushokuritsu hyogaki

3県含む今春大卒就職率、91.0% 「氷河期」下回る

関連トピックス


 文部科学省と厚生労働省は1日、今春卒業した大学生の就職率が91.0%だったと発表した。5月の発表では、東日本大震災で被害が大きかった岩手、宮 城、福島各県を除き91.1%としていたが、3県を含めた結果、0.1ポイント下がった。「就職氷河期」と呼ばれた2000年春を下回り、統計を取り始め た97年以降で最低となった。

 地域別に見ると、北海道・東北は前年比0.1ポイント減の89.2%。関東(92.7%)、中国・四国(91.5%)、近畿(91.4%)より低かったが、九州(88.2%)、中部(89.0%)をわずかに上回った。

 北海道・東北地方の就職率について、文科省の担当者は「2月時点では前年より好調だったが、震災の影響でマイナスに転じたのではないか」と話している。




kinokuniya shohyo 書評

2011年06月30日

『フィギュール�』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

フィギュール� →bookwebで購入

 1969年に刊行されたジュネットの第二評論集である。『フィギュール�』 から3年しかたっていないが、方向性がずいぶん違っている。�では18編中12編が作品論・作家論で、6編が批評論だったが、�では比率が逆転し作品論・ 作家論は10編中3編しかない。ジュネットの関心は文学作品から文学理論へはっきり移行している。�になるとこの傾向はいよいよ顕著になり、全編が文学理 論集になってしまい、『ミモロジック』やテクスト論三部作のような大部の理論的著作を予告することになる。�はジュネットが自分の仕事の方向性に目ざめた時期に書かれた文章を集めている。

 冒頭におかれた「純粋批評の根拠」はチボーデ論であるが、チボーデといっても若い人はほとんど知らないだろう。ヴァレリーと同時代の批評家で日本でも『文学の生理学』や『小説の美学』は必読だったし、スタンダール論や文学史もよく読まれていたが、現在入手可能なのはマラルメ論フロベール論だけのようである。

 チボーデはベルクソン哲学に依拠しすぎたためにベルクソンが時代遅れになるとともに忘れられていった観があるが、ジュネットはチボーデがマラルメ の「書物」概念にいち早く注目した点や「文学共和国」という古色蒼然たる理想がヴァレリーの作家名のない文学史という理想に共鳴したものである点を再評価 するとともに、ベルクソン的語彙で語られたジャンルの理論に注目し、ベルクソンから切りはなして現代的意義を見い出そうとしている。

 チボーデ論を冒頭にもってきたり、分類癖を指摘したり、ジュネットのチボーデに対する思いいれはなみなみではない。もしかしたらヴァレリーの名声の陰になったチボーデにバルトと自分の関係を重ねているのかもしれない。

 「修辞学と教育」は現代の教育では忘れ去られた修辞学を見直そうとした論考である。

 リセの最高学年は「修辞学級」と呼ばれていたが、1902年からは「哲学学級」という呼び名に変わる。修辞学の凋落はその百年前、ロマン主義の到 来からはじまっていて、国語教育が文学に支配されるようになるにつれ修辞学は影が薄くなっていった。しかし長い伝統をもつ修辞学があっさり消えることはな く、現代の作文教育にも形を変えて残っているという。

 ジュネットによれば修辞学の伝統的な三部門のうち18世紀までは「発想」が重視されていたのに対し、19世紀には「表現法」に重点が移り、現代では「配置」の問題に限定され、もっぱら「プラン」の修辞学になっている。大学入学資格(バカロレア)くらいではそれほどうるさくないが、最難関の高等師範学校(エコール・ノルマル)の受験準備クラスや、さらにもっと難しい高等教育教授資格(アグレガシオン)では主題に適合した構成を出来るだけ早く見つける「プランの反射神経」が問われるそうである。

 本稿の発表年はわからないが、バルトがジュネットも勤務していた高等研究院の1968年のセミナーで古典修辞学をとりあげた(その成果は1970年に『旧修辞学』として出版される)のよりも早く書かれたと思われる。当時は構造主義ブームのまっただなかだが、バルトとジュネットがともに古典修辞学に関心を深めていたのは興味深い。

 「文学と空間」は時間芸術としてとらえられがちな文学の空間的性格を構造言語学があきらかにした言語自体の空間性、プルーストの大伽藍に比せられる作品に見られるような期待・想起・対応・対称・遠近法といった効果によって切り開かれる空間性、さらに修辞学的な文彩(フィギュール)によって生み出される意味論的空間という三つの視点から考察している。

 「物語の境界」と「真実らしさと動機づけ」は後の物語論につながる論考である。「物語の境界は」はミメーシスと描写、「真実らしさ……」は17世紀の読者と19世紀の読者が期待していたリアリティの違いに注目して物語とは何かを論じている。

 「昼と夜」は『ミモロジック』の詩学につながっていく論考で、初期の問題意識を知ることが出来て貴重である。

 「詩的言語と言語の詩学」はジャン・コーエンの『詩的言語の構造』(1966)の書評として書かれた文章らしい。かつては詩=韻文だったが、19 世紀に散文詩が登場して韻文は詩の指標ではなくなった。コーエンは詩を散文のコードの違反と定義し、違反がどのような頻度で発生するかを時代別に統計を とった。つまりは計量文体論である。

 ジュネットは『フィクションとディクション』ではこうした文体観を批判することになるが、本稿の時点ではかなり好意的に紹介している。

 「"スタンダール"」は本書中で唯一作家論といえる文章だろう。ただし「"スタンダール"」に引用符がついているのはジュネットがスタンダールに おける固有名詞の曖昧さに注目しているからである。スタンダールは本名をアンリ・ベールといったが韜晦癖があり、書簡やノート、草稿は偽名や渾名や架空の 地名や暗号だらけで考証が進んだ今日でも謎に満ちている。自分自身にこだわり、自らエゴチスムを標榜したものの、自伝的記述は虚構といりまじり、アンリ・ ベールは作家スタンダールの登場人物の一人にすぎないという評言もでてくる。

 ジュネットは『赤と黒』と『パルムの僧院』の語り手の曖昧さを指摘した後、剽窃と創作の境界がいまだにわからないイタリアものの間接的描写を分析し「誰が話しているのかという一見単純なこの問いに答えることがしばしば困難となり、ときには不可能とさえなる」と結論する。スタンダールは超然とした自己を守るために尻尾をつかまれないように細心の注意を払っていたのである。

 最後のサン=タマンの長編詩『救われたモーゼ』を論じた「あるバロック的物語について」と「プルーストと間接的言語」ではジュネットは狭義の文芸 批評にはほとんど興味を失っており、サン=タマンとプルーストを材料に物語論を展開しているといった方がいい。バロック的物語のいりくんだ階層構造は眩暈 がしてくる。プルーストが複雑に織りあげた暗示で進む物語から間接的言語を浮かび上がらせる手際は見事の一語に尽きる。

→bookwebで購入

kinokuniya shohyo 書評

2011年06月29日

『「モノと女」の戦後史—身体性・家庭性・社会性を軸に』天野正子・桜井厚(有信堂高文社)

「モノと女」の戦後史—身体性・家庭性・社会性を軸に →bookwebで購入

「ジェンダーを「立体視」する先駆的試み」

ある時期、ジェンダー論とはなんてつまらない学問なのだろうかと思っていたことがある。自分が浅学であることも大きいが、その内容が、とても平板に感じられたのだ。

 例えば、「男は仕事、女は家事」といった性別役割分業に対する批判である。もちろん、改善が進んだとはいえ、それらが未だに解決していない重要な 問題でありつづけているということは言うまでもないのだが、正直に言えば「男が悪い」式のありきたりな結論を聞くのに飽き飽きしていた時期があった。


 大学で学び始めた当時は、むしろこうした議論が見開かせてくれる新しい社会問題への視座の気づきに心躍ったものだが、それ以上の目新しい知見を感じることができない日々がしばらく続いていた。そんな折に本書と出会ったのである。


 本書の内容は、さまざまな「モノ」とのかかわりを通して、戦後の女性たちが、いかに自己や他者、そして社会全体とかかわり合いを持ってきたのかを歴史的 に描いたものである。「自己/他者/社会」といった3次元から、社会を捉えようとする視点は、はるか昔のドイツの社会学者ゲオルグ・ジンメルにまでさかの ぼりうる、オーソドックスなものといえるが、むしろだからこそ確固たるものとなっている。


 本書ではこれを、「身体性/家庭性/社会性」に置き換え、たとえば身体性については、下着類や生理用品、家庭性についてはいくつかの家事用品、そして社 会性については、手帳やタバコといった「モノ」を介して、女性たちがいかにそれぞれの社会次元とかかわり合いを持ってきたかという点について、克明に記述 している。


たしかに、女性が女性らしく振る舞い得るのは、生得的にその人が女性だからというよりも、こうした「モノ」を介して、それぞれの次元において、女性らしい かかわりを持っているからだといったほうが説得的である。加えて本書が魅力的なのは、こうした「モノ」が一方的に女性らしさを規定していると捕らえるので はなく、むしろそうした規定力と女性たちの意味づけとの相互交渉を克明に記述しているところにある。そこからは、より現実的な手法で、既存のジェンダーを 少しづつずらしていくための、建設的な処方箋にもつながっていくことだろう。


これらの点において本書は、これまでの平板化しがちだったフェミニズムやジェンダー論とは、明らかに一線を画す著作となっている。しいて言えば、「家庭 性」という次元の設定について、実態に寄り添ったためにそのようなネーミングになるのは理解できるとしても、「(他者との)関係性」「親密性」といったよ り抽象的なタームにしておいたほうが、この分析概念の応用範囲をより広めることができたのではないかと思われる。


 なお続編にあたるものとして、『モノと男の戦後史』『モノと子どもの戦後史』(いずれも吉川弘文館)もあるのだが、読み比べると、やはり抜群に面白いの は本書である。その理由として、特にひと頃までの男性たちには典型的だが、天下国家や社会のことばかりを考えて、身だしなみや他者との関係性に無頓着でい るような人々については、この立体視のための3次元図式が不要になってしまうからかもしれない。

むしろ、抑圧的な立場におかれてきた女性たちのほうが、それこそ発明王となるカリスマ主婦のように、さまざまに「モノ」とのかかわり合いを工夫しながら、 自らの生活を満たされたものとするための着実な知恵をふんだんに蓄積してきたのだともいえるだろう。今後もこうした生活の知恵を克明に記述していく、着実 な研究成果が期待されよう。


 本書は平易な文体で読みやすいが、事例が豊富で読み応えのある一冊である。それこそ男女を問わずに、幅広い世代の方に読んでいただきたい。


→bookwebで購入

kinokuniya shohyo 書評

2011年06月29日

『フィギュールⅠ』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

フィギュール筫 →bookwebで購入

 フランスの批評家は自分の批評原理をあらわす言葉を評論集の総題にすることがすくなくない。ヴァレリーの『ヴァリエテ』、サルトルの『シチュアシ オン』、バルトの『エッセ・クリティック』などである。ジュネットがタイトルに選んだのは『フィギュール』で、現在Ⅴまで出ている(邦訳はⅢまで)。フィ ギュールには文彩、形姿、数字といった意味があり、はからずも物語論やテクスト論を集大成することになる方向性を暗示していたかもしれない。

 さて第一集であるが、冒頭にフランス・バロック期の詩を論じた三篇の評論が掲げてある。これがすばらしいのだ。

 まず、サン=タマンを論じた「可逆的世界」。鳥と魚はわれわれ二次元に縛られている人間と異なり、三次元の立体空間を自由自在に進むことができ る。サン=タマンは「同時に泳ぎ飛ぶ」二つの種族をシンメトリックにとらえ、水の中の世界と大気の世界がたがいに映発しあい、鱗が羽に、羽が鱗に変ずる不 思議を歌う。

燃える日輪の下、私は何度となく見たのだ、
本物の飛ぶ魚が、あたかも天から落ちてくるのを。
それらは波の中で、貪欲な怪物たちに追われて、
その臆病な翼のうちに避難所を求め、
漂う松の木の中に、あらゆる方向から雨降り、
その黄金の体を甲板に撒き散らした。

 バロック詩についてはウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』で熱っぽく語っていたが、確かにこれはすごい。

 次の「ナルシス・コンプレックス」ではバロック詩の偏愛する反映のテーマがバシュラールのいう「宇宙的ナルシシズム」に向かう過程を跡づけ、「黄金は鉄のもとに落ち」ではバロック的テーマの網の目がパスカルやラシーヌにも受けつがれていることを明らかにしている。

 ジュネットというとバルトの弟分で構造主義理論を器用にまとめる人くらいにしか見ていなかったが、こんなテーマ批評の傑作を書いていたのだ。もっと早く読んでおきたかった。

 バロック詩の次はプルースト論だが、登場人物が物語の進行につれて見せていく多面的な像が互いに衝突しあい、否定しあううねりがバロック詩の延長で論じられている。ジュネットの物語論はこのプルースト論が発端らしい。本格的に読んでみたくなった。

 「固定しためまい」はロブ=グリエ論である。昔読んだ時はバルトが『エッセ・クリティック』で当惑気味に語ったロブ=グリエ1とロブ=グリエ2の矛盾をうまく整理していているなと思ったが、バロック詩からの流れで読むと別の相貌が見えてくる。

 ロブ=グリエ的世界の特権的な空間である迷路は、かつてバロックの詩人たちを魅了したあの領域、差異と同一性の可逆的な記号がいってみれば厳密な 混同によって結び合う、存在のとてつもない領域である。その鍵となる語はわれわれのフランス語には存在しないあの副詞であるかもしれない。……中略……そ の語とは、似ているけれども違ったようにという副詞である。この単調でかつ当惑をかきたてる作品群においては、空間と言語が無限の増殖 によって消滅していく。ほとんど完璧にたっしているこの作品群は、まったくそれ自身のやり方で、ランボーのことばをもじって言うなら、「固定した」めま い、つまりおこると同時に消されるめまいであるのだ。

 この一節は『囚われの美女』や『グラディーヴァ』など、ロブ=グリエが監督する映画作品を予告しているといっていいだろう。1960年時点でここまで見通したのはみごとだと思う。

 「マラルメの幸福?」はジャン=ピエール・リシャールの『マラルメの想像的宇宙』の書評として書かれた文章で、テーマ批評と構造批評の間に広がる深い溝を語っていて興味深い。リシャールはテーマ批評の側に残ったが、ジュネットはバルトともにこの溝を越えてゆくことになる。

 「羊の群れの中の蛇」ではふたたびバロック期にもどる。バロック期から古典期への変わり目にあらわれた牧歌物語『アストレ』が主題である。『アス トレ』は数年前、ロメールが映画化して『我が至上の愛』という題で公開されたので必ずしもなじみのない話題ではないだろう。映画を見ていれば決して無菌無 害な少女小説ではなく「世界文学全体の中で最も長大で最も愛すべきエロティックなサスペンス」だという評言もうなづける。

 「文学ユートピア」はボルヘス論で、架空の時空がなだれこんでくる「トレーン、ウクバル、オルビス・テルティウス」を中心に無限の繰りかえしの空間を論じているが、ここにもバロックの影がさしている。

 「構造主義と文芸批評」は最も早い時期に邦訳された論文で、日本ではジュネットの名前はこれによって知られたといっていいだろう。ロシア・フォル マリスムと構造批評の関係をきれいにまとめていてトドロフと五十歩百歩という印象を受けたが、今読んでも同じ感想である。ただ、後の壮大な分類体系を予感 させる部分はある。双葉より芳しであろう。

→bookwebで購入

kinokuniya shohyo 書評

2011年06月30日

『鉄道と日本軍』竹内正浩(ちくま新書)

鉄道と日本軍 →bookwebで購入

「鉄道は国家なり」


 学問上の恩師とも言うべき人にこう言われたことがある。「社会(科)学を学ぶものは、一度は軍隊と戦史について学んでおくべきだ。なぜなら、軍 隊は合理的な近代組織の一つの典型であり、戦史はその実地における活動記録に当るものだからだ」と。その方は、かの小室直樹氏からそう言われたのだとい う。


 しかしながら今日の日本社会では、軍隊や戦史に詳しい者といえば、「ごく一部のミリタリーマニアのことだろう」といったイメージしかもたれないかもしれ ない。希有な例外として、東京工業大学の橋爪大三郎氏が「軍事社会学」の講義をされているという話を聞いたことがあるが、そのシラバスにも「おそらく日本 で唯一の講義」と記されていた記憶がある(橋爪氏も小室門下のお一人だ)。


 だからこそ、この社会では、組織が非合理的な方向に突っ走ったおかしな失敗が、いまだに後を絶たないのではないか、といったら言い過ぎだろうか。昨今の原発を巡る失敗が、第二次世界大戦時の軍部の動きになぞらえて語られるのも、決して故のない話ではない。

 さて、敗戦後、軍が解体された後に、もっとも軍隊らしい組織として残されたのは、実は鉄道ではないかと思う(もちろん自衛隊は今日でも存在してい るのだが、人々により日常的でなじみがあるのは鉄道だろう)。別な言い方をすれば、日本ほど、鉄道に携わるものたちが軍隊のように行動する社会も珍しいと いえるだろう。制服・制帽をきっちりと着用し、時間には秒単位で正確で、すれ違う時には敬礼をする・・・といった様子は、日ごろは当たり前に感じているこ とである。

 だが、他の国の鉄道に乗ると、例えば鉄道先進地のヨーロッパでも、鉄道員たちがラフな格好やフレンドリーな対応をしていることに驚くことがしばしばある。


 こうした点からも伺えるように、そして本書がその中心テーマとしているように、少なくともある時期までにおいては、軍隊と鉄道にはきわめて深いかかわりがあったのである。


 例えば本書でも記されているとおり、日清戦争後の陸軍に、鉄道大隊が創設されたことや、その後の日露戦争が実は鉄道をめぐる争いであったことなどは、今日では忘れられがちかもしれない。特に後者については、日本海海戦ばかりがクローズアップされがちであろう。


 さらには、それ以前においても、国内の幹線鉄道を敷設する際には、比較的平地が多く建設コストを抑えられる海岸沿いを通るか、それとも建設コストはかかっても艦砲射撃にさらされるリスクを避けられる山中を通るか、といった議論が真剣に交わされていた。


 この点に鑑みると、レールの幅だけが異なる中途半端な「ミニ新幹線」があちこちで作られたり、平行する在来線が廃止されたり第3セクター化されて、全国 を結ぶ鉄道網がズタズタになっていく今日の状況は、もし明治の元勲が生きていたならばどう思うのだろうか。また国防や安全保障だけでなく、防災という観点 からしても、日本経済の大動脈とも言える東海道新幹線のすぐそばに、浜岡原発が立地している現状はどう見えるのだろうか。


 このように、過去を学ぶことの意義は、ただ単に知識を増やすことだけではなく、現状を反省的にとらえ返すための貴重な視点を与えてくれることにあるといえるだろう。


 鉄道と日本社会との深いかかわりが、これまで十分に掘り下げられてこなかったという点は過去の書評の中でも繰り返し述べてきたことだが、本書はさらに進 んで、鉄道と軍隊の深いかかわりについて、特に近代化初期段階の明治期に焦点を当てて論じた貴重な著作であり、今日の問題を考える上でも示唆に富むもので ある。


→bookwebで購入