2014年3月3日月曜日

kinokuniya shohyo 書評

2014年03月02日

『セラピスト』最相葉月(新潮社)

セラピスト →紀伊國屋ウェブストアで購入

「評伝にはしない」

 ノンフィクションというジャンルの可能性を感じさせる一冊である。
 日本におけるカウンセリングのあり方を取材した本書は、内容からすれば、たとえば中井久夫や河合隼雄の評伝としてまとめられていてもおかしくはなかっ た。かなりの部分は、中井や河合が統合失調症患者の治療の現場で果たした革新性を強調することに割かれており、最相氏自らがいわば実験台となって中井氏の 「風景構成法」による診断を受けるあたりは、資料的価値も大きい。

 しかし、最相氏はあくまでカウンセリングというテーマにこだわった。もしこの本が評伝として書かれていたなら、おそらくカウンセリングをめぐるさ まざまな問題意識は、中井久夫や河合隼雄といったカリスマ性に満ちた�偉人�の、人生の物語に吸収されてしまっただろう。それだけ二人の人生にはあっと驚 くような、そして濃厚な、エピソードがあふれているということでもある。本書でもそうした物語が排除されているわけではないのだが、著者の眼はつねに別の 一点をも見据えている。

 それはカウンセリングの根本的な「うさんくささ」ということである。著者は終始この疑念を捨てない。そもそもカウンセリングの歴史はそれほど長い ものではない。アメリカでこの言葉が使われるようになったのは20世紀はじめ。日本にもまもなく紹介され、第2次大戦後に本格的に導入されることになる。 ただ、長らくカウンセリングには、カウンセラーが相談者を教え導く「善導」という考えがあった。そういう思考法を根本から変えたのが、河合隼雄であり中井 久夫だったのである。

 彼らの方法の支えとなったのは「箱庭療法」と呼ばれる診療だった。セラピストが箱庭を用意し、そこにクライアント(患者)がおもちゃを入れてい く。そうすると患者にとってうまく言葉にならないものが、無理に言葉にしなくても、この箱庭を通して表に出てくるというのである。河合隼雄は「見ただけで わかるという直感力がすぐれている」日本人には、箱庭療法の可視性がぴったりだと直感し、いち早く国内での治療に導入した。

 この療法にはひとつ鍵となることがあった——これは河合や中井の診療法の全体にもかかわることで、本書の最大のテーマでもある。セラピストがいか に黙るか、ということである。セラピストの沈黙は、それまでの「善導」とは対極にある姿勢だった。診療する側はあくまで患者の言葉が出てくるのを待ち、無 理強いしたり、介入したり、やたらと解釈を加えたりはしない。大事なのは、表に出されたものを共有すること。

 こうまとめると、現代人の多くは「それはすばらしい」と安易に賛成するかもしれない。「他者の声に耳をすませる」といったフレーズは今、とても耳 に心地良く響く。しかし、ことはそう単純ではない。一口に沈黙と言っても、ただ黙っているというのとはちょっと違う。上手に黙るのである。しかも簡単で明 快なマニュアルがあるわけではない。だから実際の診療は、それぞれのセラピストのやり方におおいに依存することになる。黙る、待つ、という方法論にはじめ は納得した人も、診療の現場で不安に思ったり、疑念をいだくこともあるだろう。そして、ときにはそんな疑念があたっていることもある。また、「箱庭療法」 はとくに統合失調症の患者には、たいへん危険な作用をおよぼすことがあるという。使い方によっては、人の秘密をのぞくことにもつながるし、さまざまな負の 側面も想定されるのである。

 最相のスタンスが効力を発揮するのはそのあたりである。「カウンセリングはうさんくさくはないか?」という疑念を最後まで手放さずに語りつづける ことで、著者は「箱庭療法」や、これと組み合わせて使われる「風景構成法」を成功物語や魔法の治療法の一部として示すのではなく、うまくいくかもしれない し、うまくいかないかもしれない、しかし、それまで問題にされなかったものに到達する可能性をもった何かとして描き出し得ている。

 とりわけ注目すべきは、最相の声の重ね方である。ノンフィクションがさまざまな証言の集積を土台として組み立てられるのは当たり前のことだが、し ばしばそこには強力な物語が生じてしまう。つまり、証言の数が多くても、そこにわかりやすい筋書きが見えてしまうことがままある。では、相対立する証言を ぶつけあえばいいかというと、必ずしもそうではない。むしろ証言が鋭く対立すればするほど、そこにはいかにも悩ましげな�ドラマ�が生じてしまうのだ。そ こでは問題は�文学化�している。

 本書では最相は極力そうした�ドラマ化�や�文学化�を避けているように思える。話をわかりやすくしすぎない。おもしろくしすぎない。典型的なの が、先にも触れた中井との面談の記録である。これが冒頭、中程、そして終盤と三箇所で挿入されるのだが、真ん中のそれは実際に最相が「風景構成法」による 診断をうけた様子の記述である。著者がいかに物語化を避けようとしているか、その苦労が偲ばれる記録になっている。

 記録の中で中井は、「風景構成法をやってしまいますか」と言うと、A3の紙を用意して「枠があるほうとないほうと、どっちが描きやすいですか」と いうような言葉をかけながら、少しずつ最相に描画をうながす。決して強制的ではないやり方で、さりげなく何を描くかを指示する。

「まず、『川』がくるんですよ、なぜか」
「はい」
「むろん、どこに流してもいいですよ」
「はい。これまでの取材や資料で見た他の方の絵が頭に浮かんでしまうのですが、自分が思い浮かぶ川はこれしかないという川がありまして」
「それしかないというなら、ご自分の川でいいんじゃないでしょうか」
 では、とサインペンをもち、川を描く。紙の中心から手前に向かって流れてくる川である。遠近法で描いているため川上は狭く、川下に向けて川幅が広がっている。ちょうどスコットランドの旗のように長方形をXで四分割した下方の三角形が川になっているというイメージである。
「ほう……」
……。
「『山』、ですね」
 川に続いて、山を描く。さきほどの川の右側に山を描くが、中腹で切れて頂上は見えない。山は複数あってもよいというので、最初の山の奥にもう一つ山を描く。こちらはてっぺんが見えている。
「山ですねえ。そうすると『田んぼ』でしょう」(一六七)

 実に散文的な会話である。緊張感や、方向感が薄く、小説ならこんな部分はボツだろう。しかし、どことなく気の抜けたような会話だからこそ、きっと 当事者の何かをゆるくしてくれる作用が働いているらしい、ということがうっすらとわかる。何となく�その向こう�に穏やかに到達していく感じがある。い や、�その向こう�とは、ほんとうはこんなふうにぼおっとしながら到達するものなのかもしれない。私たちは刺激の強い�ドラマ�に慣れすぎているのだ。

 実はこのあと、中井のゆるやかな誘いにうながされつつ、最相自身が自分の描いたものについてのある解釈に到達することになる。ここはこの本のひと つの山とも言えるところだ。実験台になった著者が、自らの苦い部分に引き合わされる。しかし、本来なら情動とともにこみあげてくるものを描写してもおかし くないその部分でも——そしてセラピーではしばしばそういうことは起こりうるだろうが——著者の感傷は極力抑えられている。

 本書にはカウンセリングをめぐる問題を、個人の物語として完結させまいとする意識が強く働いている。評伝にはなるまいとしている。しかしそれは同 時に、すべてを個人の物語として完結させたいという隠れた衝動が強かったことをも示唆する。本書では明らかに河合隼雄と中井久夫という二人の巨人が屹立し ている。が、それだけではない。今ひとつの物語も見え隠れする。著者自身の物語である。この物語は完全に封殺されることなくあちこちに顔をのぞかせるが、 しかし、著者の社会的な問題意識を呑みこむこともない。途中で明るみになるのは、著者が幼少の頃からずっと「そもそも私の話など聞いてもらえないだろう」 と思いながら育ってきたことである。語ることをめぐる抑圧にまみれた過去があればこそ、こうして「私の物語」と「カウンセリングの問題」は最後まで拮抗し たのかもしれない。少なくとも評者にとってもっともおもしろかったのは、この拮抗だった。

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Posted by 阿部公彦 at 2014年03月02日 22:37 | Category : 心理/認知/身体/臨床




2014年1月12日日曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年12月23日

『考証要集』大森 洋平(文春文庫)

考証要集 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「時代劇通になれる」

書物を刊行する者にとっては、校正者は頼みの綱である。400字詰原稿用紙でいえば、300枚以上ときには500枚を超える量を書いていると、念には念を 入れたつもりでも思わぬところで、勘違いやケアレスミスがどうしてもでてくるからである。重要なところで間違いがあれば、読者も興ざめになるだろう。だか ら執筆者にとってはよき校正者に当たるかどうかは、かなり重要である。ドラマや映画などの映像では、書物における校正者にあたるものが考証担当者である。

とくに時代劇になれば、調度品、服装、風景など考証担当者にお世話にならなければならない。言葉遣いだってそうである。時代劇なのに「元気をもらった」とか「自信たっぷり」のような言葉が使われていれば、つくりものがすけてみえ、しらけてしまう。

そういえば、評者も時代劇を観ていて、これはちがうだろうと思ったことがよくある。たとえば、人気テレビドラマだった「必殺仕事人」では藤田まこと 演じる中村主水が屋台で蕎麦を食べるシーンが定番だが、当時は屋台の食品は下層庶民のもの。主水は下級武士とはいえ、大小をさしている。とすれば、せめて 手ぬぐいでほっかぶりぐらいはしているのではないか、とおもったものである。といっても時代劇は歴史そのものの再現ではなくフィクションである。だからま あいいのかとおもったのだが、歴史事実を知っている者にはどうしてもしこりは残る。

そう、時代劇は、元来、歴史事実に仮託されたフィクションであるから、時代劇に考証などいらないのではないか。そう思う向きもあるかもしれない。そ こあたりについて著者は、こう言っている。たしかに、時代劇は歴史に仮託したファンタジーである。だから史実にこだわりすぎると面白くなくなる。しかし、 架空の世界をよりそれらしく見せるためには、細部でできるだけ、史実に配慮することだ。「完全な史実ではないフィクションだからこそ考証は大事」「万物の 根源はストーリーテリングであり、時代考証はその第一の僕(しもべ)である」という。まことに考証が厳密におこなわれることでドラマの虚実皮膜の厚みがで るというものである。

まあそんなご託宣はともかく、用語の解説がおもしろい。どのページからでも用語解説を読み始めるのがよい。時代劇によく出てくる「遠島・島帰り」の ところにはこうある。町奉行が「遠島(島流し)〇年申し渡す!」というシーンに出くわすことがよくあるが、これは間違いという。遠島は終身刑、恩赦が無け れば帰ってこれないからである。また「おれは島帰りだ」と二の腕の縞の入れ墨を見せて凄む悪人が出てくるが、これも間違い。縞の入れ墨は「前科〇犯」の印 だと解説されている。「鍋焼きうどん」のところでは、明治初期に大阪で考案され、東京の下町に普及したものとある。「鍋焼きうどんをつくるには大火力が必 要で、屋台で大量に売りさばくのは難しい」からである。ある時代劇で鍋焼きを出すシーンがあり、著者が「必死に止めた」と制作現場のエピソードも添えられ ている。

また本書を現代語から引くこともできる。「いなや予感がする」は、時代劇ではどういうべきか。答えは「胸騒ぎがしてならぬ」。物の場合はいつから使 われたが大事である。「草履」のところをひくと、すでに平安時代にあったということもわかる。どこから読んでも楽しめる用語集である。読んでいるうちに、 時代劇通になったような気がしてくること必定である。


ところで、評者は、本書の著者といささかの縁がある。1996年1月から3月までの教育テレビ(いまのEテレ)の「NHK人間大学」という12回放映の企 画(「立身出世と日本人」、のちに『立身出世主義』として世界思想社から刊行)で著者が担当ディレクターだった。雑談の折に、著者の博学ぶりにびっくりし たことを憶えている。趣味は古本屋を覘くことで、将来は考証関係の仕事にしたいと言っていた。念願かなって著者はその3年後に考証の仕事に就いた。しか し、考証という仕事は本を読んだり学者に聞けばよいというものではない。同時代を生きた人の体験談がかなり重要で、本書にはその薀蓄も語られている。その 後、著者から本書のもとになる「ネタ帳」の複写を送付していただいたり、NHKの番組で著者の名前をみるようになった。考証と言えば、評者の世代では、司 馬遼太郎も感服したという稲垣史生(1912〜96)さん。評者は『映画評論』などの雑誌で氏のコラムを愛読したものである。著者に考証の神様稲垣さん再 来の「胸騒ぎがする」元へ「予感」がするのである。


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Posted by 竹内洋 at 2013年12月23日 19:31 | Category : 演劇/映画



kinokuniya shohyo 書評

2013年12月26日

『神話論理〈1〉生のものと火を通したもの』レヴィ=ストロース(みすず書房)/『アスディワル武勲詩』(ちくま学芸文庫)

神話論理〈1〉生のものと火を通したもの
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アスディワル武勲詩
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 レヴィ=ストロースの大著『神話論理』の第一巻である。生きているうちに読みきりたいと思い、手をつけることにした。

 レヴィ=ストロースには『アスディワル武勲詩』という神話研究の傑作がある。わずか120頁の小著ながら、カナダ太平洋岸、バンクーバーのあたりからアラスカにかけて伝承されたツィムシアン族の神話群を水際立った手際で分析してみせ、新しい神話研究の方法論を世に問うた構造分析宣言とでもいうべき本である。

 『神話論理』四部作は『アスディワル武勲詩』の延長上で起稿されたが、最初の二巻が主に南アメリカ、後半の二巻が主に北アメリカと南北両アメリカ大陸を覆い、邦訳にして3000頁近くにおよんでいる。

 規模がこれだけ違う以上、重点の置き方も違ってくる。

 神話にはオリジナルがなく、すべて異文だという立場は同じであり、異文を生みだす神話素をとりだすのに構造言語学の音素分析の方法を援用する(英 語話者には law と raw は別の音だが、日本語話者にはどちらも「ロー」で同じ音になるというように)点も共通だが、『アスディワル武勲詩』が神話素とツィムシアン族の習俗や宇宙 観の相関関係を重視するのに対し、『神話論理』では神話素の対立が部族から部族をまたいでどのように変形されていくかにより注目している。最終的には現実 につながるのかもしれないが、とりあえず神話は現実に根をおろすのではなく、神話固有の時空に枝葉を伸ばしていくのである。

 『アスディワル武勲詩』には神話が部族の現実に直結するという「岩底に達する」ような安心感があったが、『神話論理』では神話が神話を際限なく生みだしていくという浮遊感が広がっている。

 本書の章立ては音楽用語で統一されているが、序文にあたる「序曲」には次のようにある。

 そしてたぶん、すでに示唆してあるが、さらに踏み込んで、主体というものを取り除いて、ある意味では、神話たちはお互いに考え合っている、と想定すべきであろう。というのは、本書で取り出して示したいのは、神話の中に何があるかであるよりは、互いに最大限離れた精神や社会や文化から取り出した具体的資料である無意識に作られたものに共通の意味を与えることのできる、最上のコードを決めている公理と公準の体系だからである。

 「神話たちはお互いに考え合っている」という表現を奇矯と受けとる人がいるかもしれないが、『神話論理』を行きつもどりつしながら読みすすめていくと、まさに神話が神話を考える世界なのだと実感する。わたしは本書を二回読んだが、二回目の方が浮遊感がよりいっそう深い。

 さて『生のものと火を通したもの』である。本書は人間が火を獲得して料理が可能になり、自然と文化が分割されたという料理の起源をあつかうが、出発点となるのは『悲しき熱帯』でおなじみのボロロ族の神話で、『神話論理』全体の「基準神話」ともなっている。長いので、ごくかいつまんで要約してみよう。

 成人式をむかえる若者にペニスの鞘を作ってやるために母親が森にはいるが、若者は森の中で母を犯してしまう。父親は息子が母親を犯したのを知り、死者の霊のがらがらを取りに行かせるが、彼は祖母と鳥の助力で無事にもどってくる。
 父親は若者に崖の上のコンゴウインコをとりにいかせる。巣の高さまで登ったところで棒を倒してしまい、彼は宙吊りになる。どうにか頂上にたどりつき、木の枝で弓矢を作ってトカゲをとらえる。
 若者はトカゲを食い、残りを手足にくくりつけたが、腐ってあまりに臭いので気絶する。そこにコンドルが降りてきてトカゲをたいらげ、彼を尻から食いはじめる。尻を全部食べたところで満腹になり、コンドルは若者を地上に下ろしてやる。
 彼は我に返り果実を食べるが、尻がないので素通りしてしまう。彼は祖母の話を思いだし、塊根をつぶして練って尻を作った。
 若者はようやく村にもどるが、村には誰もいない。彼は親兄弟を探してさまよい、祖母と弟を足跡を見つける。彼は恐れからトカゲの姿を身にまとっていたが、ついに決心して真の姿を見せた。
 その夜、嵐になり、村の火が全部水につかり、祖母の火だけが残る。翌朝、村人全員が種火をもらいにきた。父親は何ごともなかったように彼をむかえた。
 若者は父親に復讐するために狩りを催すように仕組む。彼は父親が待ち伏せしている場所を見つけると、偽の角をつけてシカに変身し、父親に突進して突き刺し、湖に突き落とした。父親はブイオゴエの霊(人食魚)に食われ、骸骨は底に沈み、肺は水草になった。
 若者は村にもどると父親の妻たちにも復讐した。

 この神話のどこに料理の起源があるのか、自然と文化の分割があるのかと不思議に思う人がほとんどだろう。ボロロ族の神話そのものは料理に直接は結 びつかない。料理につなげるにはボロロ族と隣あった地域に居住するジェ語を話す諸部族が伝える火の起源神話を仲立ちにする必要がある。

 本書にはジェ系の火の起源神話の異文が六話収録されているが、その中からカヤポ族の神話を紹介しよう。

 あるインディアンが岩山の頂にコンゴウインコの巣を見つけ、妻の弟のボトケを連れて雛鳥をつかまえにいく。梯子を登ったボトケは巣から卵を投げおろすが、卵は途中で石になり、義兄は怒って梯子をはずしてしまう。
 ボトケは岩山の上で数日間立ち往生し、飢えと渇きで自分の糞便を食べる。
 そこの弓矢と獲物をもったジャガーが通りかかる。ジャガーは地面に映っているボトケの影をとらえようとするがつかまらない。上を見て影だとわかると梯子を治し、ボトケに降りるように言う。
 ボトケが降りてくるとジャガーは彼を背中に乗せ、住家に連れていって焼いた肉を食わせる。人は火を知らなかったので、火を通した肉を食べたのはボトケが最初である。
 ジャガーはボトケを養子にするが、ジャガーの妻は彼をいじめるので森に逃げる。
 ジャガーは彼に弓矢をあたえる。ボトケは継母を射殺すが、怖くなって弓矢と焼いた肉をもって村に逃げる。
 ボトケは夜中に村に着き、母親の寝床を見つけ自分が死んでいないと納得させる。彼は出来事を語り、火を通した肉を配る。インディアンたちはジャガーから火を奪いとることにする。
 インディアンたちはジャガーの留守宅を襲い火を持ち去る。村にはじめて灯りがともり、肉を焼き、竈で暖をとれるようになる。
 ジャガーは火と弓矢を奪った養子の忘恩を怒り、人間に憎しみを抱く。ジャガーは牙で狩りをし、肉を生で食べることにする。

 ボロロとジェの神話は内容こそ異なるが、構造がよく似ている。

 どちらの神話の主人公も鳥の巣を荒らそうとして高いところに取り残され、飢える。臭気の原因は腐ったトカゲと自分の糞便と異なるが、悪臭を身にまとう点は同じである。

 一方相違点もある。ボロロの主人公は実の父親に棒を倒されるが、ジェの方は姉の夫によって梯子をはずされる。ボロロの主人公は人間の実子だが、 ジェの方はジャガーの養子である。ボロロの主人公は母親に近づきすぎてインセストを犯し、父親を殺してしまう。ジェの主人公は養父の方から接近してきて母 親のように面倒をみてくれるが、恩知らずにも養母を殺してしまう。

 さらに言えば、ジェの神話が火の起源神話だとするなら、ボロロの方は雨風の起源神話である。内容が真逆なのだ。二つの神話は単に相違するというより、対称性にもとづいた反転関係にあるといった方がいい。

 部族から部族へ神話が伝播する際、神話素に何らかの変換がおこなわれる。変換の理由は部族の習俗の違いによる場合もある。たとえばジェ系の部族の 多くは母系で妻方居住なので、村にもどってきた主人公は母親か姉妹によって自分だと認めてもらうが、夫方居住のシェレンテ族の伝える異文では兄弟によって 認められるというように変換されている。

 しかし現実だけが変換を左右するわけではない。ティンビラ族の伝える異文では父親によって認められるとなっているが、ティンビラ族は妻方居住なのである。

 神話は蜘蛛の巣状に広がっており、今の言葉でいえばハイパーテキストを構成しているのだ。ただしハイパーテキストのノードからノードへ移る際に変換が起き、変換がくりかえされて元にもどることもある。

 レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』につづいて、本書でも群論に助けをもとめているのも決して根拠のないことではない。厳密な群を構成しているわけではないが、神話の網の目は群に似た閉じた構造をとっているらしいのである。

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Posted by 加藤弘一 at 2013年12月26日 23:00 | Category : 哲学/思想/宗教




kinokuniya shohyo 書評

2013年12月27日

『ジヴェルニーの食卓』原田マハ(集英社)

ジヴェルニーの食卓 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「印象派の画家達の光と影」

 当たり前だが、画家も人間である。しかし、私たちは絵を通してしか巨匠達の姿を垣間見ることはできない。マティス、ドガ、セザンヌ、モネ、印象派の画家 達は若い時を、そして晩年をどのように過ごしていたのか。それぞれの作品にはどのような背景が隠されているのか。浮世絵の影響を受けたことで知られる印象 派の芸術家達の人生の一部を、身近に存在した者の視点から描いた作品が、原田マハの『ジヴェルニーの食卓』だ。

 晩年のマティスを熱い視線で眺めているのは、家政婦のマリアだ。ニースに住むあるマダムの家で働いていたマリアは「オテル・レジナ」に住むマティ スの元に使いに出され、それがきっかけでマティスのところで働くことになる。彼女が運んだマグノリアを生ける花瓶を選ばされて「マグノリアのある静物」の 翡翠色の花瓶を偶然選ぶ。幼い頃絵が好きだったマリアは、素人にしては慧眼の持ち主だった。マティスはその時84歳。

 ある時ピカソがマティスを訪問する。マリアは二人の至福のひと時を目撃する。マティスが亡くなっても、ピカソは連絡もよこさず葬儀にも来ない。何 故ならピカソの中で、マティスはまだ死んでいないからだ。マリアの中のマティスも死んではいない。ピカソ家へマグノリアの花を届けた後、マリアはヴァンス のロザリオ礼拝堂へ行く。マティスの制作したステンドグラスを通して光を浴び、彼女は「先生」の存在を感じる。そして修道女になる決心をする。マグノリア の花を軸にした、ニースの光と青を肌に感じる美しい小品だ。

 ドガの肖像は、アメリカ人画家メアリー・カサットによって語られる。新たな作品を生むための苦しみを「闘い」と言うドガ。まだ幼い踊り子をモデル に彫刻を制作する。ドガが生前発表した唯一の彫刻作品『十四歳の小さな踊り子』だ。踊り子にまつわるエピソードを、その作品を初めて見たときの「足下から 寒気が突き上げてきたあの感じ」と共に紹介している。ドガはこの彫刻により踊り子が有名になり、エトワールとなることを夢見た。第六回印象派展に出品され たこの作品は、「気色の悪い、醜い人体標本」と酷評され、買い手もつかなかった。晩年のメアリーは画商のはからいによって、ドガの死後アトリエに残されて いたこの作品と再会することになる。

 「タンギー爺さん」では、語り手はゴッホによる肖像画で有名な「タンギー爺さん」の娘である。彼女がセザンヌに書く手紙という形で、多くの画家が 登場する。タンギー爺さんは、画材店を開いているが、売れない貧乏画家でも絵が気に入ればどんどん絵の具を都合してやる。代金を払えない画家達は、自分の 絵を代わりに爺さんの店に置いていく。そうして、ピサロ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、スーラ、ベルナール等の「売れない」絵が爺さんの店に飾ら れることになる。その後爺さんが死んだときに、遺族は生活費のためにこれらの絵を競売にかけるのだが、驚くような安値でしか売れない。今ならば売り上げは 天文学的数字になるのではないかと思うと、絵画の値段というのは理不尽なものだ。

 手紙の中ではセザンヌの苦しい生活が色々と語られる。幼なじみのエミール・ゾラとの確執も。セザンヌの素晴らしさを語るゴッホ、ゴーギャン、ベル ナール達は、自分たちは「セザンヌの息子」だという。タンギー爺さんは、この才能ある若き画家達を早くセザンヌに紹介したくてたまらない。野心家の若い画 商が爺さんに尋ねる。「あなたが、今後、いちばん伸びると目星をつけている画家は、どの画家ですか」爺さんはセザンヌのリンゴの絵を持ってきて言う。「こ の画家はポール・セザンヌといいます。わしは無数の画家たちの絵を見てきたが、この画家は、誰にも似ていない。ほんとうに特別なんです。いつか必ず、世間 に認められる日がくる。世間が彼に追いつく日が」

 ジヴェルニーでのモネとの日々を語るのは、モネが再婚したアリスの連れ子であるブランシュだ。モネの作品のモデルにもなっているが、なによりもブ ランシュはモネと初めて会った11歳の時から、彼の助手を務めている。外へ絵を描きに出かけるとき、彼女は手押し車に絵の具やイーゼルを積んでお供する。 画家が絵を描いている背中を見守っているのが、この上なく好きなのだ。結局彼女は、モネの先妻の息子と結婚するが、母と夫が亡くなった後ジヴェルニーのモ ネの元へ戻り晩年の大作「睡蓮装飾画」の完成を応援する。

 『ジヴェルニーの食卓』には印象派の絵に見られる光が溢れている。そして光があれば影がある。美しい絵は、楽しく明るい精神から生まれるとは限らない。画家達の織りなす人生の光と影が、一枚の絵のように浮かびあがってくる「印象的」な作品だ。


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2013年12月27日

『フランス文学と愛』野崎歓(講談社現代新書)

フランス文学と愛 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「フランス苦手症のあなたに」

 以前から持っていた印象——というか「常識」——をあらためて確認した。やっぱりフランス文学はきらびやかだ。フランス文学を語ることばは華やか で、フランス文学を語る人は颯爽と美しい。英文学の本では『英文学と愛』とか『ラブの英文学』といったタイトルは考えられない。筆者が教わった英文科の先 生は「研究者たるもの地味でなければならぬ」「人生いかに地味に生きるかが勝負だ」と、口にこそ出さなかったかもしれないが背中でそう教えてくださった。 隣の芝生は青く見えるというが、英仏海峡の向こうのフランス文学の世界はいつもまぶしい。名前だって「チャールズ」より「シャルル」の方が艶があるではな いか。

 ……と、こんなことを言っていると、英文学界隈には多い「アンチ・フランス」派や「フレンチ・アレルギー」派の人が口を挟んでくるかもしれない。 フランス的とはいかがわしさの権化…。あの意味不明の術語! 曖昧模糊とした美文調! くるくるよく回る舌! 嫌みな頭の良さ! 日本の批評をダメにした のはまさにフランス一派じゃないか!!と。

 しかし、こういう「フランス苦手症」の人にこそ、本書をお勧めしたい。『フランス文学と愛』は、一方でフランス的なものの華麗さをたっぷりと見せ つけつつ、他方ではきわめて明晰に、刺激的に、しかも楽しく「愛」のテーマへと我々を導いてくれる本なのである。朦朧美文派とも、高速頭脳派とも無縁。良 質の「フランス性」とはまさにこのようなものだ。

 本書は内容からすると「フランス文化入門」とか「フランス文学史」といった副題が挿入されてもおかしくないほど、新書という限られたスペースにも かかわらず近代フランス文化の全体を見渡すような広々とした視界を持ち、文学史的な枠組もしっかりある。その史観とは以下のようなものだ。そもそも愛=ア ムールとは神と人間との間に生ずるものだった。人間は神を愛し、また神が人間を愛する。しかし、やがて近代化とともに宗教の力が衰えるとアムールは人間化 され、その中心は男女関係に移る。

 本書が概観するのは、時代とともに移りゆくこの愛の形の変貌ぶりである。近代のアムールは決して安定したものではなかった。まず17世 紀。宮廷風恋愛の伝統の残る中、ときに危険なほどの爆発的エネルギーでアムールが人々を圧倒し、「恋愛結婚」なるものに価値が見いだされ始めた。それから 18世紀。現在の常識からは考えられない、ポルノまがいの露骨さでアムールの快楽が追い求められた時代。その一方で倒錯的なまでの純愛主義が夢想された り、「初恋」の美が発見されたりもする。そしていよいよ19世紀。スタンダールの『赤と黒』、バルザックの『谷間の百合』、フローベールの『感情教育』 『ボヴァリー夫人』、さらにはゾラ、モーパッサン。燦然と輝くこうしたビッグネームを、たっぷり紙数を費やして語る3章、4章は本書の核。しかし、その最 大のテーマは幻滅と鬱屈なのである。

 19世紀のアムールにはいったい何が起きたのだろう。野崎氏は18世紀と19世紀の間に大きく横たわる溝を示す格好の例として、モーパッサンの 「往時」という作品からの一節を引用してみせる。18世紀を生き、今や高齢に達した老婦人が、19世紀のただ中を生きる孫娘にこんなことを言うのである。

「神聖なのは恋愛だよ。結婚と恋愛はまったく関係ないものさ。結婚なんて一度しかないものだけれど、恋は一生に二十回だってできる。何しろ自然がわたしたちをそんな風に作ったのだから。結婚なんて社会の決まりだろう。でも恋愛は本能ですよ」(78)

ここには「恋愛と結婚は別物」という、現代に至るまで私たちが直面し続けている大きなテーマの芽生えが見える。むろん、この18世紀的老婦人の恋愛 観が、ノスタルジアとともに単純に称揚されるのではない。19世紀とはこうした恋愛観を記憶の片隅にとどめつつも、ブルジョワ化した人々が個人の快楽を抑 圧し、家庭の平安を優先した時代なのである。そこにはさまざまな軋轢が生じることになるが、その最大の被害者となったのは女性だった。従って、19世紀フ ランスの男性作家たちは、結婚の幻想を徹底的に暴くことに腐心し、「家庭の安定」という幻想の犠牲になった女性たちの心理や生態を子細に描くことにエネル ギーを注ぐことになる。こうした流れはそもそも作家たちが象徴的な「女」だったこととも関係している。ブルジョア的価値観の広まる社会で小説家はマージナ ルな地位においやられ、社会の「弱者」としての女性ときわめて似かよった立場にあったのである。

 こうした傾向の頂点をきわめたのはフローベールの『ボヴァリー夫人』だった。この作品を語る段になると、野崎氏の筆致にもおのずと力がこもる。も し、お試し読みをするなら、138頁あたりからの記述がお勧めである。考えてみると『ボヴァリー夫人』ほど評者による再物語化の欲望をそそる作品もないの だろうが、野崎氏のものはとりわけ精彩を放つ。決して悪のりしているわけではない、でも、どこか遠慮がちに講談調で、抑えがたく勢いのいい語り口が、鈍感 な夫シャルルと、満たされない欲望をかかえたその妻エンマとによる夫婦生活の描写を、横からおおいに盛り上げる。何といっても19世紀は退屈と鬱屈の時代 なのだ。その鬱屈を、まがまがしい行く末までも含めて熱っぽく華麗に語るところに、野崎本の妙味がある。

シャルルが結婚生活に満足し、幸福をかみしめていたことに間違いはない。最初の結婚のときはただ母親のいうがま ま、持参金目当てで年上の未亡人と一緒になったにすぎなかった。「不美人で、薪のようにひからびているくせに、春先の木の芽にも似た吹き出物だらけの女」 だったとにべもない書かれ方をしているその妻は、シャルルが往診先の農場で知り合った娘エンマに心を惹かれ始めたころ、あまりに好都合なタイミングでぽっ くり逝き、そこでシャルルは自分の望む若い娘との再婚を果たす。つまり彼の人生は財産目当ての結婚から「恋愛結婚」——シャルルはそんな気のきいた言葉を 口にする種類の人間ではないが——へという時代の潮流を具現するような進展を見せたのだ。(139-140)

 『ボヴァリー夫人』を読んだことのない人も、読んだけどストーリーを忘れた人も、あるいはつい最近読んだばかりの人も、こうした箇所を読めばあらためて哀れシャルルの行く末が気にならざるをえない。待っているのはきっと不幸な結末に違いないのだ。

 新婚のシャルルの幸せはまことに羨むべきものである。妻が髪をなでつけるしぐさを見、窓辺にかかっている妻の麦 藁帽子を目にするだけで嬉しくなる。少し前までの、「ベッドにはいっても足が氷のように冷たい後家」との暮らしとは何という違いだろう。(中略)問題はそ のとき新妻はどういう気分でいたのかということである。冒頭から第五章まで、もっぱらシャルル側からの描写ばかりで、エンマの内心がいささかも洩らされな いままであることがすでにして不吉な予感を読者に与える。シャルルはそんな心とろけるような幸せに値する男ではなく、ただのお人よしでしかないのではない かというわれわれの予感は、たちまち的中することになる。(140)

 野崎氏の文章は明晰ではあっても、がちがちの論文調とは全く無縁。その語り口にはそこはかとない音楽性さえあって、18世紀小説のエロスの横溢で あろうと、19世紀小説の結婚の地獄であろうと、作品紹介とは思えないほどの臨場感で読者に追体験を促す。これからフランス小説に(再)入門したい人には うってつけだ。

 あるいは本書のほんとうに個性的なところは終盤にあるのかもしれない。アムールの展開を通史的に追う中で、第五章では「親子の愛」のテーマが扱わ れる。フランス人が子どものしつけに厳しいのはよく知られているが(イギリス人から見ると、フランス人にとっては「子どもはにっくき敵」らしい)、たしか に小説に描かれる親子のアムールは単純なものではない。教育論でも知られるルソーに、いろいろ矛盾に満ちた態度があったのもおもしろい。子育てエッセイで も知られる著者ならではの視点だろう。第六章では、20-21世紀フランス小説の翻訳者としても知られる野崎氏が、現代のアムールの行方を見定める。ボー ヴォワール、サガン、デュラスからトゥーサン、ウエルベックまで。まだまだ語ることは多い。二十世紀以降、さらなる変貌を遂げる現代のアムールを語るに は、おそらく丸々一冊の本が必要となりそうな気配だ。


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Posted by 阿部公彦 at 2013年12月27日 11:51 | Category : 文芸評論




kinokuniya shohyo 書評

2013年12月29日

『ほつれゆく文化—グローバリゼーション、ポストモダニズム、アイデンティティ』マイク・フェザーストン著/西山哲郎、時安邦治訳(法政大学出版局)

ほつれゆく文化—グローバリゼーション、ポストモダニズム、アイデンティティ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「変化し続ける、プロセスとして文化をとらえること」

 本書は、イギリスの社会学者マイク・フェザーストンが、1980年代末以降、各所で記してきた現代文化に関する論考をまとめたものである。

 本訳書の出版当時、フェザーストーンはノッティンガム・トレント大学の研究教授であるとともに、『Theory, Culture & Society』誌の編集長を務めている。冒頭の「『ほつれゆく文化』の刊行によせて」で吉見俊哉氏も述べているように、本書はフェザーストーンの学識の 広さが表れた、視野の大きな文化社会学の理論書ということができる。


 その全体を通して、本書が一貫して問うているのは、グローバリゼーションとローカリゼーションが進み、激しく変動する現代において、文化を研究することの社会学的な意義である。


 たしかに、グローバリゼーションの進展は、一見するとアメリカ一極集中型の政治的なパワーゲーム、あるいはマネーゲームであるかのように感じられなくも ない。こうした状況下では、イギリスで新自由主義的な政策を推し進めたサッチャー首相が、かつて述べていた「もはや"社会"などというものは存在しない」 という言葉にも、それなりのリアリティを感じてしまいかねない。


 だがフェザーストーンによれば、こうした見方はあまりにも一面的なものだという。


 そもそもグローバリゼーションは、単に政治、経済的なパワーゲーム、マネーゲームだけではなく、もっと多様なプロセスからなるものだからである。具体的 には、仮に経済的な動向が、既存の国民国家の枠を超えてグローバルな規模に拡大していくことに先んじていたとしても、やがて人々のアイデンティティの遡及 対象となる、新たな社会や文化のあり方が、問われざるをえなくなってこよう。またそれは、既存の国民国家内に限定されてきた社会や文化の概念とは違って、 流動性の高い、変化し続けるようなものとならざるを得ないのだともいう。


 そしてこの点においてこそ、フェザーストーンは、文化を動的なプロセスとして、しかしながら一つの自律した領域として捉えていく意義を強く主張している。


 また、別な観点からすれば、グローバリゼーションが決してアメリカ一極集中的に進むものではなく、むしろ日本や中国に代表されるような複数の極に基づい て進むものという主張も注目に値しよう。いわばこれまでの社会像(≒国民国家)が、そのままに拡大して単一の国際社会となるのではなく、むしろ複数の極が そのままに存在し、それらがせめぎ合い続けるそのプロセスの中で、まさにアイデンティティや文化が、重要な問題として浮上してくるはずだというのである。


 フェザーストーンによれば、こうした状況下において、(文化を研究する)社会学に求められているのは、「グローバルな社会関係や創発するグローバル社会といった新しい指示対象を考慮するように、基礎概念を再考する」(日本語版序文より)ことだという。


 こうした主張は、『社会を超える社会学』などの著作において、「移動(モビリティ)」を中心概念に据えながら、新たな時代の社会学を構想しようとする、 同じくイギリスの社会学者ジョン・アーリなどの研究とも大いに関連するものである(実際に、フェザーストーンとアーリは、『自動車と移動の社会学』などの 共著がある)。


 このように、アジアにもその目を向けながら、グローバルな規模で現代文化を社会学的にとらえようとした著作は、残念ながら日本社会においては多くない。 どちらかといえば、等身大のリアリティの記述にいそしむような成果が、多くを占めていると言わざるを得ないのが現状だろう。


 だがその一方で、フェザーストーンの著作にも、一つだけ不満が残る点があるとすれば、記述が抽象的で、わかりやすい具体例を欠く傾向があるという点である。


 評者は、本書を今年度の大学院ゼミの購読テキストに指定して読み進めてきたのだが、受講生たちとともに行ってきた作業の中心は、個々の記述に、その都度 あてはまりの良い具体例を探し出していくことであった。そしてその際に、現代の日本社会における文化の事例が、驚くほどに数多く、それも実に適合的である ことを学んできた。


 よって、フェザーストーンの著作に、抽象的で具体例を欠くという批判を向けるのは、そもそもが「後出しジャンケンのないものねだり」のようなもので不適 切なのかもしれない。むしろ、80年代末から90年代にかけて書かれた論考の中で、すでに今日的な文化状況を見通していたその慧眼をこそ、評価すべきなの だろう。


 そして、本書の様な理論的研究を、実際の日本社会の事例に当てはめつつ、さらに新たな理論的な展開を進めていくことが、我々のような後進の研究者の努めなのだと思わされた次第である。


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Posted by 辻 泉 at 2013年12月29日 17:31 | Category : 文化論



kinokuniya shohyo 書評

2014年01月06日

『対人恐怖』内沼幸雄(講談社現代新書)

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羞恥の発掘

 今回の枕の一冊は、"Seeing and Being Seen: Emerging from a Psychic Retreat" (John Steiner, Routledge, 2011) 。防衛の牙城に引き籠る心的事態(Psychic Retreat)の解明に勤しんできたシュタイナーの第二作だ。日本でも、『見ることと見られること−「こころの退避」から「恥」の精神分析へ』(岩崎学 術出版社、2013)というタイトルで翻訳出版されている。フロイトとメラニー・クラインの血統を示す、著者の存在証明の書という印象を受けた。妄想分裂 ポジションと抑うつポジションというクラインの発達シェーマを基盤に、エディプス・コンプレックスをはじめ、同業者内ですら悪名高い「死の欲動」を読み直 していることが目新しく、臨床例で肉づけされていて読み易い。精神分析界のキーワードが罪(GUILT)から恥(SHAME)へとシフトして久しい(所詮 は流行なのだ)なかで、遅れをとっていたクライン派が、恥概念の読解に取り組んだという貢献も評価される。

 だが、恥の研究といえば、内沼幸雄氏を忘れてはならない。対人恐怖の研究を軸に、二大精神病・パラノイアを論じてきた内沼氏は、真摯な研究家の例 に漏れず、疾患から人間一般にいたる存在論へと考察を深めてきた。著作の大半が専門書とあってか、現在も再版されているのが、本書『対人恐怖』に限られて いるのは忍びない。しかし、近年の出版事情にあって、1990年出版の本書が今なお再版され続けていることは、『対人恐怖』が不易な課題と思索を提示して いることの証左にほかならない。

 本書は、新書という体裁やタイトルからも想像できるように、対人恐怖に悩む読者が手にとる機会が多いのかも知れない。このたび、思いつきで講談社 のサイトを確認してみたところ、案の定、悩める読者をターゲットとしているかの紹介を目にした。確かに、出版社の意図に沿って、対人恐怖の説明と治療に焦 点を据えて書かれてはいる。けれども、巷に繁生する安易な対策本とは、混同するなかれ。本書には、著者の人間観・日本文化論といった哲学が沁みこんでいる し、臨床面からも見ても、ドイツ精神病理学・森田療法・精神分析の鉱脈に触れることができる。それぞれの理論・技法への批評精神を持ちながらも、けっして 戦闘的でなく、良し悪しを咀嚼する分別を持ち、自分の領分をわきまえつつ持論を進化させている著者の思想に出遭える一冊だ。
 『羞恥の構造−対人恐怖の精神病理−』をはじめとする諸作に見られる厚い思索の層から、ここまでコンパクトな一般読者向けの一冊を創出するのは、想像以 上に困難な作業である。にもかかわらず、思想の骨格をきっちりと伝え、抽象を具体におとす手続きを怠らず、端正に仕上げている。専門書バージョンよりも硬 さのほぐれた文体は、伸び伸びと直裁で、良識に支えられたバランスの妙にも、著者の哲学の一端を見る思いがする。

 さて、対人恐怖とは、対人関係の葛藤そのものが症状として結晶化したものである、と著者は説く。葛藤とは、自己と他者の狭間を揺れる不安にほかな らない。自己本位vs.他人本位、我執vs.没我、自他分離vs.自他合体、などなど用語は何であれ、二極に引き裂かれる難儀を覚えるのは病者に限らな い。漱石に拠れば、「智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」である。
 著者の主眼は、この二極の中間地帯であるところの「間」にある。近年の精神分析でもてはやされる対人関係論でいうところの「関係」とは、似て非なる概念 である。赤子が「人見知り」で感じとるものは、この「間」であり、そこに羞恥のはじまりがある。母子一体(没我)でもなければ未だ個体(我執)でもない赤 子が、他者に直面して覚える困惑に、著者は対人恐怖の萌芽を見出し、かつ人間存在の枢要を読み取っているのだ。

 対人恐怖は、赤面恐怖→表情恐怖→視線恐怖へと症状変遷する、と著者は指摘する。臨床観察に基づいた変遷の源流に、人見知りという万人に共通の現 象を添えて、羞恥→恥辱→罪という倫理変遷を加えたものが、著者独自の人間理解のシェーマである。羞恥と恥辱の差異に留意したことに慧眼がある。さらに、 「間」に戸惑うこころ−羞恥−を、克服すべき事態とは見なさず、むしろ尊重する観点こそが、著者の思想の根本である。「羞恥は愛と倫理の接点であり、それ らを超えゆく体験である」とは、『対人恐怖の心理』で表明された著者の言葉だが、この背景には、欧米における恥の考察では、「羞恥への視座が欠落し、つね に無力の意識としての恥辱が強調されているのを特徴とする。これに対して罪は力の意識と関係づけて論じられる」(上同書)との視点がある。

 端的には、対人恐怖の治療は、上記変遷の根幹であるところの「間」の意識を育て、治療の場でも率先して「間」を作っていくことにある。詳細は本書 に当たって欲しいが、個の達成を促す西洋化された治療にはない、独自の方向性であることは強調されて良い。もっとも、この方向性は、実は多くの日本人臨床 家が企まずして為していることにも思える。著者の成果は、その営為の背景にある文化的装置の解析と臨床とのあいだに理論的架橋を設けたことにある。内沼氏 の提唱する「間」の治療は、極めて日本的かつ独自の治療理論であり、深甚な問題提起でもある。特に、精神分析とのあいだには看過できない懸隔がある。精神 分析を生業とする専門家であれば、内沼氏の羞恥の発掘を改めて参照し、省察の機会として欲しい。
 
 ともあれ、一般読者を対象にしているとはいえ、尽くせぬ課題を投げかけてくれる一冊である。


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Posted by 勝田有子 at 2014年01月06日 12:50 | Category : 心理/認知/身体/臨床