2009年10月7日水曜日

asahi shohyo 書評

匂(にお)いの人類学—鼻は知っている [著]エイヴリー・ギルバート

[掲載]2009年10月4日

  • [評者]瀬名秀明(作家)

■料理からサブリミナルまで網羅

  五感の中でも嗅覚(きゅうかく)はとくに謎めいた感じがする。古くからミステリー作家の想像力を刺激してやまないが、ではどこから勉強を始めればいいのか よくわからない。本書は嗅覚について知る最初の一冊として最適だろう。なにしろ嗅覚専門の認知科学者である著者は冒頭から周到な文献調査をもとに、巧みな 文章で通説・俗説を斬(き)り捨ててゆく。「人は一万種の匂いを嗅(か)ぎ分けられる」? 「ヘレン・ケラーは鼻が敏感だった」? 私たちが考える嗅覚の 神秘の大部分は、通説に縛られてまともに匂いと向き合わなかった私たち自身の怠慢さに原因があるのだ。しかしそれらを拭(ぬぐ)い去れば、本当の嗅覚の面 白さが見えてくる。

 料理と匂いの関係から匂いのサブリミナル効果まで、海外の科学書の例に漏れず本書も嗅覚に関するほとんどすべての文化をまるご と扱う。ワイングラスのかたちは嗅覚よりむしろ視覚に訴えるものだとか、母親は自分の子のうんちをよその子のよりいい匂いと感じるとか、興味深い話が満載 だが、本書最大の特徴はシニカルでフェアな著者の視点だろう。こんな面白い実験がありますよと紹介するだけでなく、世の中には時間の有り余った感覚心理学 者もいるものだと一言添える。ふつうの科学書ならマドレーヌの匂いをもとに大長編を仕立てた作家の感性を褒めそやすだろうが、この著者はプルーストの小説 に実は嗅覚や味覚の描写が少なく、もっぱら視覚描写であることを指摘し、しかも嗅覚記憶の科学はいまなお途上だとしてプルーストの持ち上げすぎに釘(く ぎ)を刺す。ミステリー読者に評価の高いジュースキントの長編『香水』もたいしたことはないと手厳しい。だが好もしいのはきちんとその理由を示しているこ とだ。実際の匂いを発散させたものの大失敗した舞台劇に関(かか)わった苦い経験も包み隠さず述べている。

 なかでもかつて匂いつき映画を普及させようとした興行者ラウベの挑戦と挫折を描き切った一章はペーソスに溢(あふ)れ、それ自体が上質の映画のようだ。ポップだがしっかりと論拠を持ち、筆も立つ、いい読み物である。

    ◇

 勅使河原まゆみ訳/Avery Gilbert 米国の認知科学者。

表紙画像

匂いの人類学 鼻は知っている

著者:エイヴリー ギルバート

出版社:ランダムハウス講談社   価格:¥ 2,100

表紙画像

香水—ある人殺しの物語 (文春文庫)

著者:パトリック ジュースキント

出版社:文藝春秋   価格:¥ 770

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